メモ・二次創作の構造

「石を投げれば二次創作に当たる」と誰が言ったか知りませんが、二次創作の氾濫振りには目を見張るものがあります。漫画、小説、イラスト、動画といったように形式も多岐にわたり、作り手の技能においてプロに劣らぬような上質の作品も少なくないばかりか、実際にプロとして活動している人が同人活動として二次創作を行っている例も数多く存在します。
かような昨今の状況ですが、ここであらためて考えました。なぜ人は二次創作をするのでしょうか。単なるファン活動の一環として捉えられている二次創作ですが、なぜこれほどの隆盛を見せているのでしょうか。言い方を変えれば、なぜ人は「オレ○○」を作りたがるのか。
似たようなことはもっと深く、誰かがどこかで書いているとは思うんですが、近頃ここでは怪談ばっかり書いていたせいか窓ガラスに野鳥がぶつかってきたりした*1為、たまにはこういうものをということで書きます。

二つのベクトルについて

なぜ二次創作がこれほど生産され続けるのでしょうか。無論理由はそれぞれにあって、一概には言えないでしょうが、あえて極論してしまえばその作品への愛ゆえにでしょう。
と言っても二次創作には大きく分けて二つの方向性があるように思います。作品への愛によるものとあくまでもその作品をネタの素材として扱うものです。二次創作的なものを指す言葉にオマージュとパロディというものがありますが、私が言うのはこれとも少し異なります。ここでは目的がどこにあるか、ということで分けています。
ネタのベクトルはあくまでもギャグやエロややおいといった形式を作るのが目的であって、作品はあくまでもその素材という役割でしかない。流行り物を用いたコラージュなどはこれの代表的なものでしょう。みんなが知っている素材を使ってどれだけ面白いものを造り上げるか。そこだけを見れば、原作への愛も敬意も批判も皮肉もありません。
これは原作への愛や憎悪とは別の話で、自作によりいかに他人や自分を楽しませるか、という考え方です。こういう方向性の二次創作は、本歌取りや変奏曲といった形で古くから存在していました。
本稿でとりあげたいのは、もう一つの方向性、作品への愛を出発点とするものです。こちらはもう一方と違い、ポストモダン的で新しい形だと思われます。
こちらは作品への愛と執着によって二次創作を生み出すもので、そこで選択する形式やネタはあくまでも手段でしかありません。彼らが目的とするのは、愛する作品世界の継続あるいは補強です。

愛とか最初に言い出したのは誰なのかしら

所謂「小さな物語」は、ひたすら消費されてゆくものです。現在流通している物語、二次創作を生む素材となっている作品は全てこの小さな物語と言っていいでしょう。従って、どんなにその作品に熱中しその作品を支持したとしても、すぐにその物語は消費されて物語としての力、世界の枠組みとしての説得力を失ってゆきます。僅々一年前、ことによると半年前に流行した作品が現在話題にも上らなくなる、ということは昨今よくある現象です。
しかしその作品を愛し、親しんだファンはそのまま作品が己の中で終わってゆくのを惜しみます。しかし原典はどうしたって終わってしまう。ならば自分の手で作り上げればいい。というわけで彼らの中のある者は原典を素材にして独自の物語を生み出します。
二次創作にまで至る人でなくとも、親しんだ物語が終わってゆくのを惜しむファンはたくさんいますから代替物、場合によっては正統な続編として需要はあります。質のいい、言い換えれば説得力のある二次創作が原作ファンの間でも一定の支持を得ている例はいくらでも挙げられるでしょう。
悲しいことにこうやって生み出された二次創作も結局は小さな物語であるがゆえに消費される運命にあります。かくして生産能力を持つ人々は、作品に対する愛を込めた二次創作を次々に生み出してゆきます。
ここに至って、特定の人々の中では次第に原典と二次創作の区別が曖昧になってきます。所謂シミュラークルに近づいてくるわけです。一致するかどうかは知らないけど。
シミュラークルはてなダイアリーキーワード先生によれば、

ポストモダン社会における、オリジナルなきコピーのこと。

とのことですが、一見二次創作は原典という根拠があるんだからシミュラークルと違うじゃないのさ、というように思えます。しかし、二次創作を著す人々の中では、原典は既に根拠としての力を失いつつある、或いは失ってしまったものなのです。その場合二次創作は失われてしまったものの複製となります。原典が大きな物語としての根拠たり得るなら、そもそもこの種の二次創作は生まれないのです。原典の無力化は二次創作をしないファンにとっても同じで、彼らもやはり原典への愛のやり場を失いつつある、または失っているので、消費者として二次創作を支持する層もそれなりに存在し得るのでしょう。


聖地巡礼」と呼ばれる行動もこれに類する現象だと思われます。愛する作品に登場する土地、或いはモチーフにされた土地をファンが実際に訪れるという行動です。間近くはひぐらしファンの白川郷参り、らきすたファンの神社参りなどが話題になりました。これは、徐々に薄れ行く己の中の作品世界を補強する為に、揺るぎない実在の土地を訪れてその世界の根拠とする、という側面があるのではないでしょうか。
まあネタとして巡礼する人もいると思いますけど。

余談・一次創作と二次創作

一次創作と二次創作の違いって何よ、というと当然それは素材の違いです。
一次創作から二次創作に至る過程についてちょっと整理してみます。
ある一次創作Aに触れた消費者が認識するのが、A´です。これは各人の中に、似てはいるのですがそれぞれ違う形で形成します。ここまでが二次創作以前、鑑賞の範囲です。
二次創作をする人は、このA´を素材にして己の内にA´´を作りだします。これを文章、イラスト、漫画などといった何らかの形に出力したものがA´´´です。一般的に二次創作と呼ばれるものはこのA´´´を指しますが、その原型となるA´´の時点から既に二次創作、「オレA」と呼べる存在ではあるでしょう。
一方一次創作も、作者が捉えた情報Xが作者の内部でX´として認識され、脳内でX´´という形に構成されてX´´´という作品に出力されます。「全ての創作物は現実の二次創作である」という詭弁もあるように、構造の上では二次創作と何ら異なるところはないように思います。
であるならば、一次創作にもネタと愛の二つのベクトルがあるのではないでしょうか。この二つがどういう割合で現れているかが作家や作品の個性の一つのように思います。


どっちかというと私自身の創作原理はネタ方向の比率が大きいような気がします。

*1:一時痙攣していたものの、三十分ほどで回復し元気に飛びたってゆきました。よかった。