浴衣の木

サーフィンが趣味のKさんが友人と一緒に鹿島灘に波乗りに行った夜のこと。
三人で旅館の一部屋に泊まったのだが、Kさんは夜中にふと目が覚めたという。
何やら甲高くて耳障りな音が聞こえる。友人二人のどちらかが歯ぎしりをしているらしい。
しょうがないやつだな、とそちらに目をやると、何か変なものが見えた。
隣の布団で寝ている友人の向こうに、浴衣を着た女らしき姿が正座している。
はっとして目を凝らすと、どうも単なる女のようではない。
浴衣を着た体つきは確かに女性らしく見える。
しかし袖や襟からは木の枝のように細く曲がりくねって枝分かれしたものがぐねぐねと伸びている。手首や頭がない。
趣味の悪い置物かとも思ったが、木の枝のような腕が友人の身体の上をゆっくりと撫で回すように前後している。その動きに合わせるように、友人の歯ぎしりの音が響く。
これは只事じゃないな、と思ったKさんは少し迷った挙句に覚悟を決めて、大声を上げて勢いよく立ち上がった。
すぐに部屋の隅に駆けて灯りのスイッチを入れた。ぱっと明るくなった室内に、もうあの木の枝のような何かの姿はなかった。
友人たちは熟睡していたようで、Kさんの声に目を覚ましたものの何が起きたかは全く理解できていなかったという。

底なし沼

二十年近く前のこと、Oさんがまだ小学生になる前のことだという。
平日の午後、お母さんが居間で洗濯物を畳んでいると玄関の方から激しい泣き声が響いた。
はっとしてそちらに向かうと、玄関から入ってすぐの廊下の床にOさんがしゃがんで泣いている。
だがよく見てみるとしゃがんでいるのではなく、Oさんの腰から下が床に埋まっていた。
どういうこと?
床は木の板張りだが、割れたり穴が空いているような様子はない。不可解なことに、Oさんの上半身だけが床から生えている状態だ。
一体どうしたの、何したらこんなふうになるの、と問いかけながら掴んで引っ張り上げようとしたが、それよりも早くOさんの体は見る見るうちに頭まで沈んで声も聞こえなくなった。まるで底なし沼だ。
すっかり取り乱したお母さんはOさんが沈んだあたりの床板を叩きながら名前を呼んだ。
返事はない。
そこへ玄関がガラッと開いて、おばあさんと手をつないだOさんがニコニコしながら帰ってきた。
泣きながら駆け寄ったお母さんに、おばあさんが怪訝な顔をした。
お母さんはたった今の出来事を話したが、おばあさんはそんなはずはないという。
幼稚園から今連れて帰ってきたところなのだから、Oさんが家にいたはずがないというのがおばあさんの話だった。
だいたい床に人が沈んでいくはずがない。昼寝して夢でもみたんだろう――おばあさんがそう決めつけるので喧嘩になり、それからしばらくお母さんとおばあさんは口を聞かなかったという。

キャッチボール

Nさんが定年退職して少し経った頃の話だという。
ある日の午後、家のすぐ近くで子供の声がした。
窓からそちらを見ると、家の裏手の空き地で小学生くらいの男の子二人が楽しそうにキャッチボールをしている。
Nさんはこの男の子たちがひと目で気に入ったという。
最近の子たちはゲームやらスマホやらばかり眺めていて、昔のように外で活発に遊んでいるのを見ることが稀になった。
やはり子供はああやって外で遊ばなきゃな、どこの子だろうな、と嬉しくなったNさんはニコニコしながら窓を開けたが、そこで首を傾げた。
空き地に誰もいないのだ。
たった今、窓を開けるその瞬間までそこにいたはずの男の子たちがどこにもいない。聞こえていた声もぷっつりと絶えてしまった。
隠れたりできるような場所もないし、そんな時間もなかったのに、男の子たちは一瞬でかき消すように消えてしまった。
夢でも見たような気持ちでぼんやりしながら窓を閉めたNさんだったが、その途端にまた目を疑うようなことが起きた。
窓越しに、先ほどと同じ男の子たちがキャッチボールをしている姿が見える。楽しそうな声も聞こえる。
背筋がすっと冷たくなったという。
窓を閉めているときにしかあの子たちは見えないんだ。
Nさんはそのまま窓から離れると玄関から外に出て、裏の空き地とは反対方向に散歩に出かけた。三十分ほどして帰宅したときには、もう窓越しにも男の子たちの姿は見えなくなっていたという。

夜の職員室

中学校で教師をしている人の話。
仕事が溜まっていて、他の先生はみんな先に帰ってしまった夜のこと。
校舎の戸締まりを確認してから職員室に戻ると、パソコンのキーボードを打つ音がする。
あれ、みんな帰ったと思ったのに。
そう思いながらパソコンに向かう人の姿をよく見ると、見覚えのある顔だ。
以前その中学校に勤めていて、二年ほど前に他の学校に異動したF先生だった。
来るという話も聞いていないし、もう時間も遅い。なぜ今、ここでパソコンを使っているのか。
……お久しぶりです、今日はどうされたんですか?
訝りながらも声をかけてみたが、F先生はパソコンの画面に視線を向けたまま、頷きも返事もしない。
ただ黙々とキーボードを打っている。
もう一度声をかけてもやはり反応はない。
その時あることにはっと気がついた。F先生が向かっているパソコンの画面は真っ暗で、何も映っていないのだ。
これはいよいよおかしい。誰か他の先生に連絡したほうがいいのではないか。
しかしその前に少し試してみたいことを思いついた。明かりを消したら何か反応するだろうか。
そこで職員室のドア付近にあるスイッチをまとめてオフにした。一斉に明かりが消え、窓の外の僅かな明かりが差し込むだけになった。
キーボードを打つ音は止んでいた。F先生がいた辺りは暗くてよく見えない。
すぐにもう一度明かりを点けると、F先生の姿はどこにもなかった。


もしかしてF先生の身に何かあったのではないか、と考えてすぐにF先生の自宅に電話をしてみたが、元気そうな本人が出た。

特に変わりはないということで、拍子抜けしてしまったという。

二時に来る

マンションの自室で眠っていたEさんが真夜中にふと目を覚ました。
布団に横になったまま時計に目を凝らすと、ちょうど夜の二時。寝付いてからまだ二時間ほどだ。
どうして目が覚めてしまったのかはわからないが、再び眠ろうと目をつぶったところで突如大きな足音が聞こえた。
足音はあっという間にすぐそこまで近づいてきたかと思うと、暗い部屋の中に誰かが飛び込んできた。
あっと思う間もなく、その誰かは勢いよく部屋を横切り、Eさんの寝ている上を一またぎに跳び越えて、その勢いのまま壁に吸い込まれるように見えなくなった。
わずか数秒の出来事である。
ええっ!?
うろたえながら身を起こしたEさんは部屋の明かりを点け、部屋の中を確かめてみたが特に荒れているところはない。玄関や窓もすべて施錠されていたから誰かが入ってこれるはずはなかった。
一体あれは何者だったのか。暗い部屋の中だったからその姿は真っ黒だったが、それほど長身には見えなかった。
しかしよく振り返ってみると、もしかしたら夢だったかもしれない。誰かが部屋に入れたはずがないし、壁に吸い込まれて消えたのも現実とは思えない。
早く寝てしまいたかったEさんはとりあえず夢だったと結論づけて、また布団に入った。


その数日後、また同じことが起きた。
真夜中にはっと目を覚ましたEさんは、数日前と同様に時計を見て、二時ぴったりなのを見た瞬間に嫌な予感がしたという。
その途端にまた足音がはっきり聞こえてきて、部屋に飛び込んできた誰かがEさんを跳び越えて壁に消えた。
前回と全く同じだ。
もしかしてこれは夢ではないのだろうか。
しかし今回も戸締まりは確かにしてある。生身の人間とは思えない。
Eさんは考えた結果、市内の神社から御札を貰ってきて、壁に貼ってみることにした。


更に一週間ほど経った真夜中、Eさんは例によって目を覚ました。
来たか、と思って時計を見るとやはり二時ちょうど。
すぐに足音が近づいてきて思わずEさんは布団の中で身を固くした。
足音が部屋に入ってこようというその瞬間、ドガン! というもの凄い音が響いて揺れが伝わってきた。
壁に何かが勢いよくぶつかったような様子だが、御札を貼ったちょうどそのあたりだ。
それきり部屋はしんと静まり返って、誰かが部屋に入ってくるということもない。遠ざかっていく足音もない。
恐る恐る起き上がって明かりを点けたEさんは部屋の中を確認してみたが、不審な誰かの姿は見当たらなかったし、何かが倒れたり崩れたりした様子もなかった。
それ以来は夜中の二時に目が覚めることも、誰かが飛び込んでくることもないという。

自習スペース

学生のNさんが市立図書館に勉強をしに行った。
市立図書館には四人がけの机が並ぶ他に、自習スペースとして一人用の机も複数設置されている。
幸いその日は一人用の机がいくつか空いていたので、Nさんはそのうちのひとつに腰を下ろした。
すると奇妙な感覚があった。椅子に腰掛けた瞬間から、周囲の音が急に遠くなったように感じられた。
図書館の中はもともと静かではあるが、周囲に利用者が何人もいるから、ページをめくったり椅子を引いたりする音はする。
だがそういった音が突然消えてしまったように感じた。まるで耳栓をしたかのように、周囲の音が遠い。
それだけではなく、視界もだんだんおかしくなってきた。ゆっくりと、周囲の本棚や壁がNさんに向けて迫ってくるように見える。
これはどうもおかしい……。
Nさんは腰を下ろしたばかりの椅子からすぐに立ち上がった。
その途端に音が戻ってきた。壁や本棚も元通りの位置にある。
これは……この席がおかしいのか?
もう一度同じ椅子に座る気にはなれなかったNさんは、四人がけの机に移動して勉強を始めた。
勉強しながら、最初に座った自習スペースの方を何度か眺めたが、Nさんが帰るまでそこには誰も座らなかったという。

液晶テレビ

Mさんの家でブラウン管テレビから液晶テレビに買い替えた、十数年前のことだった。
夜中、喉が渇いて目を覚ましたMさんが水を飲みに洗面所に行くと、リビングの方からおばあさんの声がする。
普段おばあさんは夜九時くらいには寝てしまって、朝まで起きない。こんな深夜に起きてるなんて珍しいな、一体何を言ってるんだろう、と気になってリビングに向かった。
リビングのドアを開くとおばあさんの言葉がはっきり聞こえた。
おじいさん! おじいさん!
おばあさんは新しいテレビに向かってしきりにそう呼びかけている。
もちろんテレビはおじいさんではないし、そもそもおじいさんはその二年ほど前に亡くなっている。
おばあさんも当時八十五歳だった。これ認知症かな、とドキドキしながらMさんはおばあさんの後ろから近づいていったが、テレビの画面が視界に入ってみると仰天して思わずあっと声を上げた。
画面いっぱいにおじいさんの顔が映っている。なぜか白黒テレビのようにモノトーンで映っているのが遺影のようだった。
しかし確かに亡くなったおじいさんの顔だ。向こうからはこちらが見えていないのか、何かを探すようにきょろきょろと見回している。引き続きおばあさんは何度も画面に呼びかけているが、聞こえていないようで特に反応を示す様子はない。
Mさんも一緒になっておじいさん、と呼びかけたが、やはり声は届かないようで、それから数分のうちにおじいさんの顔はだんだん薄くなって見えなくなってしまった。
おばあさんの話では、自室で寝ていたはずがいつのまにかリビングにいて、テレビにおじいさんが映っていることに気がついたのだという。


このことの影響があったかどうかはわからないが、おばあさんはそれ以来急に認知症が進み、体力もどんどん衰えていって、翌年の秋に亡くなった。