自習スペース

学生のNさんが市立図書館に勉強をしに行った。
市立図書館には四人がけの机が並ぶ他に、自習スペースとして一人用の机も複数設置されている。
幸いその日は一人用の机がいくつか空いていたので、Nさんはそのうちのひとつに腰を下ろした。
すると奇妙な感覚があった。椅子に腰掛けた瞬間から、周囲の音が急に遠くなったように感じられた。
図書館の中はもともと静かではあるが、周囲に利用者が何人もいるから、ページをめくったり椅子を引いたりする音はする。
だがそういった音が突然消えてしまったように感じた。まるで耳栓をしたかのように、周囲の音が遠い。
それだけではなく、視界もだんだんおかしくなってきた。ゆっくりと、周囲の本棚や壁がNさんに向けて迫ってくるように見える。
これはどうもおかしい……。
Nさんは腰を下ろしたばかりの椅子からすぐに立ち上がった。
その途端に音が戻ってきた。壁や本棚も元通りの位置にある。
これは……この席がおかしいのか?
もう一度同じ椅子に座る気にはなれなかったNさんは、四人がけの机に移動して勉強を始めた。
勉強しながら、最初に座った自習スペースの方を何度か眺めたが、Nさんが帰るまでそこには誰も座らなかったという。

液晶テレビ

Mさんの家でブラウン管テレビから液晶テレビに買い替えた、十数年前のことだった。
夜中、喉が渇いて目を覚ましたMさんが水を飲みに洗面所に行くと、リビングの方からおばあさんの声がする。
普段おばあさんは夜九時くらいには寝てしまって、朝まで起きない。こんな深夜に起きてるなんて珍しいな、一体何を言ってるんだろう、と気になってリビングに向かった。
リビングのドアを開くとおばあさんの言葉がはっきり聞こえた。
おじいさん! おじいさん!
おばあさんは新しいテレビに向かってしきりにそう呼びかけている。
もちろんテレビはおじいさんではないし、そもそもおじいさんはその二年ほど前に亡くなっている。
おばあさんも当時八十五歳だった。これ認知症かな、とドキドキしながらMさんはおばあさんの後ろから近づいていったが、テレビの画面が視界に入ってみると仰天して思わずあっと声を上げた。
画面いっぱいにおじいさんの顔が映っている。なぜか白黒テレビのようにモノトーンで映っているのが遺影のようだった。
しかし確かに亡くなったおじいさんの顔だ。向こうからはこちらが見えていないのか、何かを探すようにきょろきょろと見回している。引き続きおばあさんは何度も画面に呼びかけているが、聞こえていないようで特に反応を示す様子はない。
Mさんも一緒になっておじいさん、と呼びかけたが、やはり声は届かないようで、それから数分のうちにおじいさんの顔はだんだん薄くなって見えなくなってしまった。
おばあさんの話では、自室で寝ていたはずがいつのまにかリビングにいて、テレビにおじいさんが映っていることに気がついたのだという。


このことの影響があったかどうかはわからないが、おばあさんはそれ以来急に認知症が進み、体力もどんどん衰えていって、翌年の秋に亡くなった。

点滅

Fさんの中学1年生の娘が風邪で高熱を出した夜のこと。
深夜にトイレに行きたくなって起きたFさんがふと娘の部屋の方を見ると、ドアの隙間から漏れる光が目まぐるしく点滅している。廊下は暗いから部屋の中で明かりが点いていればよく見えるのだ。
あいつ、昼間に寝てたから眠くなくて起きてるんだな。
Fさんは寝るように注意しようと、足音を立てないように近づいて娘の部屋のドアを開けた。
すると暗い部屋の中で何かが足元にバサァ、と落ちた。
手探りでドアの近くのスイッチを押すと明かりが点いて、足元に落ちているのが娘の学校の制服だとわかった。
当の娘はベッドに横になってFさんの方を見ていたが、すぐに声を上げて泣き出した。
娘が落ち着くのを待ってから話を聞くと、こういうことがあったらしい。


夜中にふと目を覚ますと、部屋の中が明るい。誰が明かりを点けたんだろうと思ったところで、ドアの前に誰かが立っていることに気がついた。
同じ学校の制服を着ている。誰なの、と思ってよく見るとその顔は紛れもなく自分だ。
立っている自分は全くの無表情で、視線を上げてじっと天井を見上げている。
しかも奇妙なことに制服は上半身だけで、腰のところで途切れていて下半身がなにもない。
脚があるはずのあたりは向こう側にあるドアが見えている。
上半身だけの自分が浮かんでいるのだ。
これは夢かな、熱のせいで変な夢を見ているんだろうかと思いながらぼんやりそれを眺めていると、天井の蛍光灯が点滅を始めた。
始めは三秒ほどの間隔でゆっくり点いたり消えたりしたのが、だんだん間隔が短くなって目まぐるしい速さで点滅するようになった。
点滅する光の中で上半身だけの自分はじっと浮かんだままだ。気持ち悪い。
もうやめて、夢なら早く覚めて、と祈ったところで突然ドアが開いて部屋が暗くなったという。


Fさんは娘の話がすぐには信じられなかった。熱に浮かされて怖い夢でも見たんだろうと考えた。
だが、娘の部屋の明かりが点滅していたのも、制服がドアのすぐ側に落ちていたのも娘の話と一致する。
天井の蛍光灯のスイッチはドアの横にしかないから、部屋の奥でベッドに寝ていた娘に、Fさんが部屋に入る直前までそれを操作することは不可能に思えた。
娘の話の通り、部屋の中で何かおかしな現象が起きていたのだろうか?
娘は怖がっている様子だし、まだ熱もある。そのまま一人で寝かせておくのも心配だった。
とりあえずその夜はFさん夫婦の寝室にもう一組布団を敷いてそこで寝かせたという。

光るゴミ

朝七時過ぎ、出勤途中のことだという。
家から駅まで行く途中の道端に、その地区のゴミ収集場がある。
そこを通りかかると、なにやらゴミの中がぼんやり明るい。
そのあたりは建物の陰になっているから、毎朝暗いのが普通だ。それが何かの光に照らされている。
収集場は高さ二メートルほどの鉄の箱で、正面に金網を張った扉がついている。
扉越しに見えるゴミの中に、光る丸いものが見えた。
ゴミは市の指定ポリ袋に入れて出さなければならないが、その丸いものは袋に入れられていないまま、他のゴミの袋の間に挟まっている。
バスケットボールくらいの大きさの球体で、表面は滑らかな曲面だ。それが白っぽく光を放っている。
はじめは照明器具だろうか。電池が入っていて、捨てられてから何かのはずみでスイッチが入ってしまったのだろう。
でも粗大ごみは別の日だし、置いてあっても回収はしてくれないだろうな、と考えながらその前を通り過ぎようとした時、ゴミの中でガサガサッと音がした。
カラス対策に収集場の扉は閂がかかっているから、動物がゴミを漁っているとすればネズミか何かだろうか。
何がいるのか見てみようと金網に顔を近づけると、そのすぐ目の前にあの丸いものが飛び出してきた。
光る丸い物体は一度勢いよく路面で弾んでから、反対側の塀の向こうに消えた。
数秒間呆気に取られたが、すぐにいくつかの疑問が浮かんだ。
ゴミ収集場の扉は閉じたままだ。金網の目はどう見てもあの丸いものより小さい。どうやってあれはこの中から飛び出したのだろうか。
しかも飛び出して道路で勢いよく弾んだのに、全く音がしなかった。ボールか何かだったら弾む音がしたはずなのに。
ガサガサ音を立てていたのもあの丸いものなのだろうか。


丸いものの正体が気になったものの、どうにも得体が知れない。
塀の向こうを覗き込むのも不気味に思えて、足早にその場を立ち去ったという。

カタン、カタン

Mさんが結婚してすぐの頃の話。
当時住んでいた家は丁字路の角にあり、台所の窓が道路に面していた。
朝六時頃にMさんが台所で食事を作っていると、その窓の外でカタンカタンという音がする。
毎朝決まった時刻にそこを自転車が通って、路面にある排水路の蓋を車輪が踏む。その音のようだ。
誰がそんな早い時刻に自転車で通るのだろうと夫にその話をしたところ、それは多分二軒隣の家の息子だという。
片道一時間くらいかけて高校に通っているらしいから、そのくらい早い時刻に家を出るんだろうと夫は言った。
実際その後、夏場に窓を開けて朝食を作っていると、カタンカタンという音とともにその男の子の学生服姿が通り過ぎるのを何度か目にした。


ところがその子が突然亡くなった。高校から帰る途中の交通事故だった。
Mさんも葬儀に参列したが、十代の息子を亡くしたご両親は酷く憔悴した様子で、痛ましいというほかなかった。
もうあの毎朝の音は聞こえなくなるんだな、と寂しく思ったMさんだったが、その翌日のこと。
いつものように朝食を作っていると、また窓の外からカタンカタンと音が聞こえた。
錯覚かとも思ったが、次の日も、その次の日もやはり同じ音が同じ時刻に聞こえる。
今度は誰が通っているのだろうか。亡くなったあの子が通っていたのとちょうど同じ時刻に。
気になったMさんは、また次の朝に窓を開けて音の主を待った。
そろそろだ。そう思って炊事の手を止めながら窓の外を眺めたものの、それらしき通行者の姿はない。
今日は来ないのかな、と目を逸らしかけたところで、視界の端に動くものが映った。
カタンカタン。いつもの音が聞こえる。
確かに見えた。
窓の外を走り去ったのは、誰も乗っていない自転車だった。

外国語

中古車を買った人の話。
鮮やかなパールオレンジに塗装されたミニバンで、状態もよく、ひと目で気に入ったのだという。
だが数日乗ったあたりでおかしなことが起こり始めた。
運転中にカーステレオで音楽を聞いていると、曲に入っていない英語の声が聞こえてくる。
最初のうちは車外から聞こえてくるのかと思って気にしていなかったものの、どこを走っていても聞こえるのでどうやら車内から聞こえているらしいと気がついた。
ステレオのボリュームを落としてもその声の大きさは変わらない。だが何と言っているのかはよく聞き取れない。そもそも英語かどうかもよくわからなくなったが、とりあえず日本語ではなさそうだった。
カーステレオを使っていないときは声はしないようなので、惜しいとは思ったが車内で音楽を聴かないことにした。

 


それからしばらくは特に変わったこともなかったのだが、忘れた頃にとんでもないことが起きた。
運転中に左手をシフトレバーに伸ばしたところ、シフトレバーではないものに触れてぎょっとした。
視線を向けるとシフトレバーの上に自分のものではない毛深い手が載っている。
腕は後部座席からにゅっと伸びていた。
はっとして後ろを振り向きそうになったが、待てよ、と前を見るとすぐ近くに前の車の後部が迫っていた。
赤信号だった。
慌てて急ブレーキを踏んで、すんでのところで追突は免れた。
震えながら見回したときにはもうシフトレバーに伸びていた腕は消えていて、後部座席にも誰もいなかった。
それからすぐにその車は売ってしまったという。

予言

Kさんの祖父は釣りが好きで、家から自転車で二十分ほどの海岸によく出かけていた。
その日も釣りに出ていた祖父が帰ってきたので、当時小学生だったKさんが玄関で出迎えたのだが、どうも様子がおかしい。
いつもは釣った魚を入れたクーラーボックスを満足げに持って帰ってくる祖父がその日は手ぶらで、その上随分と浮かない顔をしている。
釣れなかったの? と尋ねると、祖父は曖昧な返事をしてからぽつりと呟いた。


Kなあ、おじいちゃん、もうすぐ死ぬんだと。


ぽかんとするKさんを尻目に、祖父は自室に布団を敷いて寝込んでしまった。
驚いた祖母や父が理由を尋ねると、祖父はぽつぽつと海であったことを語った。
海岸で釣りをしていると海の中から見たことのないものが出て来て祖父に話しかけてきた。
「気の毒だがお前はもうすぐ死ぬ。もう助からないから諦めて受け入れろ。早く帰って家族に別れを告げてこい」
そんな予言めいたことを言う。
驚いた祖父はすぐに帰ってきたのだという。
そんな話を真顔でするので父と祖母は呆れてしまった。
海の中からどんなものが出てきたのか祖父に聞いても、そこは言葉を濁して語ろうとしない。ただひたすら自分はもうおしまいなのだと言う。
翌日になっても祖父はずっと布団に横になったきりで、食事も取ろうとしない。どうやらそのまま最後の時を待つつもりのようだった。
たまりかねた祖母がお寺に行ってお坊さんを連れてきた。
祖父とは古くからの付き合いであるお坊さんは、祖父の寝ている部屋に一人で入っていって、二人きりで何やら話している様子だった。
一時間ほど経ってお坊さんは祖父と一緒に出てきて、もう心配することはないと言う。
祖父も元気を取り戻したようで、その日の夕食はご飯をおかわりするほどだった。
後で祖母がお坊さんに聞いたところによると、海では稀にそうした変なものが出て、惑わされる人がいる。だがそんなものに人の死を予言するような力はないから安心していい、ということだった。
祖父はそれから十年以上長生きしたが、この時を境に釣りはきっぱりやめてしまったという。