落指

ある人が庭木の剪定をしていた。
金木犀の枝を鋏で切っていると、枝と一緒になにか白っぽいものが足元にぽとりと落ちたのが見えたので、視線を下げた。
目を疑ったという。落ちているのは人の指だった。
まさか、と思って自分の手を見たが、指は揃っている。ではこれは誰の指だ?
枝の間を見上げてもそこに誰かがいるわけでもなく、周囲にも人の姿はない。誤って誰かの指を切り落としてしまったというはずはない。
ならばこれは指によく似た別のなにかだろうか、と腰を落として土の上のそれに目を凝らしてみたものの、やはり指だ。
恐る恐るつまみ上げて顔の前でまじまじと眺めてみても、作り物のようには見えない。少し甲にしわが寄って、産毛が生えているのがわかる。短く切られた爪の元あたりで皮が少し逆剥けになっていた。
持ってみた感触も、皮膚の下に硬い骨があるようだった。
すると背後で怒鳴り声が響いた。


「おいこらっ!」


びっくりして振り向いたが、誰もいない。
自分にかけられた声ではなかったのかと思って手元に視線を戻すと、持っていたはずあの指がない。
怒鳴り声で驚いた拍子に落としてしまったかと足元を見たが、それらしきものは見当たらない。
確かにあったはずのあの指が、わずか数秒の間に煙のように消えてしまっていた。
そのときになってから、指の断面を見ていなかったことに気がついた。あるいは断面などは元々なかったような気もした。はっきり見ていなかったものの、爪の反対側の端はつるりとした丸い形をしていたようにも思えた。
どうにも気味が悪くて、その日はもうそれ以上作業をする気がなくなってしまい、剪定の続きは翌週に持ち越すことにした。
翌週の作業中は特に変わったことはなかったが、金木犀はそれからひと月ほどで急に枯れてしまったという。

絞められる

大学生のWさんが友人の家で飲み会をした夜のこと。
男四人で集まったうちの一人は早々に酔っ払って床に横になるなり寝息を立て、その傍でWさんを含む残りの三人が談笑しながら飲み続けていた。
すると深夜一時頃、寝ていた一人が急に身を起こして荒い息を吐きながら苦しそうに首を押さえている。
一体どうした、と聞くと変な夢を見たという。
夢の中で全身真っ白な女に首を絞められ、その感覚があまりに生々しくて飛び起きたということらしい。
なんだ夢か、と起きていた三人は笑ったが、そこで異変に気がついた。
三人とも、首のあたりが赤くなっている。酒のせいかと思ったが、それまで飲酒しても首だけ赤くなった覚えなどなかったし、赤い痣がちょうど両手の指で締め付けたような形をしているのもおかしい。
たった今までお互いの向き合いながら会話していたのに、誰もそんな痣には気が付かなかった。
どうもこの数分の間に浮かび上がったとしか思えないが、原因がわからない。
一方の、首を絞められる夢を見たという友人の首はなんともなかった。
首の痣は一週間ほど消えなかったという。

南校舎

Oさんは高校生の時に軽音楽同好会に所属していた。
教室棟にある音楽室は吹奏楽部が使うので、同好会の練習は南校舎と呼ばれる別棟の二階で行われていた。この南校舎では時々変な出来事が起きたのだという。


ある日の夕方、Oさんが練習に行ったときのこと。南校舎の階段を上がったところで、二階の一室のドアが開いているのが見えた。
いつもOさんが練習に使っている部屋だ。誰か他のメンバーが先に来ているようだ。
そのまま廊下を進んでいくと、その開いたドアの中からぬっと腕が伸びてドアノブを掴み、パタンと音を立てて閉めてしまった。
見えたのは一瞬だったが、赤いチェック柄の長袖を着た腕だった。制服ではないから部員ではなさそうだった。
誰が来てるのかな、と思いながらOさんは数秒後同じドアを開けようとしたが、施錠されている。
今誰かがここ中から閉めたよな。悪戯で中から鍵かけたんかな。
元々自分が開けるつもりで鍵を持っていたOさんは、すぐにドアを開けた。しかし中には誰の姿もない。
その部屋にはドアはひとつしかない。窓はすべて内側から施錠されている。
さっき見えた腕の人はどこから出て行ったんだ?
そもそもあれ、誰だったんだ?
――という体験をあとで同好会の他のメンバーに話したところ、そんな腕を見たことがあるという者は他にいなかった。ただ、他の部屋でも閉めたはずのドアがいつのまにか開いていたことがあった、という話はいくつか出てきたという。
腑に落ちないままではあったが、無くなったものがあるわけでもなく、特に困ったことも起きていないのでその話はそこまでとなった。


その翌週、また同好会活動中のことである。
Oさんたちは練習していた曲をレコーダーに録音して演奏をチェックしていた。すると聴いているうちに何だか奇妙なことに気がついて、メンバーたちがいずれも訝しげな面持ちになった。
音が多いのである。
その時のメンバーにはギターは一人しかいなかったのに、なぜかギターの音が二本分聞こえる。一人が弾いているメロディーの裏でもう一本のギターが別のフレーズを弾いているのがはっきりわかる。
コードもリズムも合っていて、何も知らない人が聞けばその場で合わせて弾いているようにしか思えないだろう。
しかし録音中はそんな音は誰も気づかなかったし、それらしき人もギターも見ていない。
何度聴いても確かにギターは二本分鳴っている。不思議ではあったが自分たちの演奏を確認するには邪魔だ。
もう一度録り直そうということになったが、今度はそこにいるメンバーが弾いた分しか録音されなかったので、皆ホッとした表情になった。

霧の橋

Mさんが車で通勤する道の途中にK大橋という長い橋がある。
夜九時頃にここを通りかかったところ、川の上には霧が出ていた。そのせいで橋の半分ほども見通せない。
今夜は冷えるんだな、と思いながら橋を渡り始めたMさんだったが、すぐに見慣れないものに気がついた。
橋の横、向かって右側に見上げるほどの大きな黒い影があり、その中ほどに四角い光が並んでいる。
なんだろうと思いながら橋を進んで、近づいていくにつれて霧の向こうにそれがはっきり見えてきた。
それは橋に接するように立つ背の高いビルで、橋の上に更に四階くらいは突き出ている。並んだ光は窓から漏れる明かりで、近づいていくにつれて窓の中に人の姿も見えた。
ビルの前を通り過ぎるときに、窓際でこちらを見下ろしている人と視線が合った。そうは言っても外は暗いから向こうからMさんの顔は見えなかったかもしれないが、確かにビルの中にいた人の顔は見えた。
若い男がひどく驚いたような顔でこちらを見ていたという。
Mさんの車はそのままのスピードでビルの前を通り過ぎ、橋を進んでいったがどうにも納得できない。
なんで橋の横にあんなに大きなビルがあるのか。川の真ん中にビルがあるはずがない。
それに朝にここを通ったときはあんなもの無かったはずだ。一日であんな大きなビルが建つはずもない。
もう一度見ようとドアミラーに目をやったが、後方にそれらしき明かりは見当たらない。すぐに橋の袂の信号で停まったので振り向いて探したが、やはりビルなどどこにも見えない。
霧の中に見慣れた橋と川の光景があるばかりだった。

池の水

Uさんが小学生のとき、一度だけこんなことがあったのだという。
共働きの両親は出勤が早く、それに合わせて朝食も早いので、Uさんも一緒に朝食を食べてから親と同時に家を出て、六時半くらいにはいつも学校に着いていた。
その日はよく晴れた朝で、少し風があった。
校門から入ると正面に植木と池がある。Uさんは毎朝この池の傍に寄って、そこに泳いでいる金魚や亀を眺めてから校舎に入ることにしていた。
するとその朝は池の様子が違っていた。
金魚がいるにはいるものの、じっとして動かないのだ。真冬ならばそういうことも普通だが、その日は秋口でまだ寒くなどない。
しかも池の底でじっとしているのではなく、どの金魚も水の中ほどで静止している。ひれを動かしているようには見えないのになぜ沈まないのだろうとUさんは違和感を覚えた。
じっと見ていると、えらも動いていない。死んでいるのか。
だが死んでしまっているのなら腹を上にしたり横になったりしているはずだ。生きているとは思うものの、それにしてはぴたりと止まって動かない。一体どういうことだろう。
おかしいと言えば奇妙なのは金魚だけではなかった。風があり、池の周囲の植木は枝がざわざわと揺れているのに、池の水面には全く波が立っていないのだ。
なぜだろうと思ったUさんは、池の縁に跪いて水面に手を伸ばした。水に指先を漬けると予想外の柔らかい感触があった。
思わず手を引っ込めると指には水滴がついていない。もう一度ゆっくり触ると、水面がぐにゅっとへこんだ。
ゼリーのように水が固まっている。手のひらで水面を叩くと、そこから波紋がゆっくりと広がった。
水が固まっているから金魚が動けないのか。なぜ池の水がこんなことになっているのだろう。
Uさんはもっとよく見てみるために、固まった水をすくい上げようと両手を差し入れた。
そこへ一際強い突風が吹いてきて、木の枝がばさばさ鳴った。Uさんもランドセルを煽られて体勢を崩し、池の縁に片手を突いた。
するとその風に吹き散らされるように池の水面にさざ波が立ち、その下で金魚が一斉に動き出した。
もう一度触れてみても、池の水はもうただの水に戻っていたという。

入り江の車

海辺に住んでいた人から聞いた話。
家から徒歩五分のところに入り江があり、時々そこで貝やカメノテなどを採って食卓の足しにしていた。
ある日の夕方にまた貝でも採ろうとしたところ、入り江の砂浜の上に一台の車が停まっているのが見えた。白っぽい色のワゴン車だ。
思わず目を疑ったという。
というのも、その入り江は道路から階段を五メートルほど下りていかなければ行けないところで、車で入れる道は繋がっていない。周囲は岸壁や岩場で囲まれているから海の方から回り込むことも不可能だ。
階段は人ふたりがやっと並んで歩けるくらいの狭いもので、角度も急だ。ワゴン車が走って下れるようなものではない。
そうなると上の車道から転落したのだろうか。それにしては周囲の砂地が乱れていないし、転落して車が無事な高さではない。
首を捻りながら階段の上から眺めていたが、よく見ると更におかしなことに気がついた。
砂地が乱れていないどころか、車の周囲にタイヤの跡が見当たらないのだ。
つまり走ってあそこまで行ったわけではないということで、クレーンかヘリコプターで下ろしたのだろうか。
何のためにそんな大掛かりなことをしたというのか。
周囲には誰の姿もない。撮影か何かのためにやったにしては人気がなさすぎる。
どうにも腑に落ちない。怪しい。
変なものには近づかないほうがいいと判断して、その日は入り江に下りずに帰宅した。


翌日また入り江に行くと、車は同じ場所にあった。前日と同じ向きで同じように停まっている。一晩ずっと同じ場所にあったのだろうか。
ずっと停まっているということは、放置されているのだろうか。
誰も乗っていないのならば、入り江に下りても大丈夫だろうか。
恐る恐る階段を下りていくと、眼の前でワゴン車のエンジンが掛かった音がした。
誰か乗ってる!?
運転席はこちらからは見えない。
そのまま動き出したワゴン車は海に向かってまっすぐ進み、速度を緩めずに水の中へと乗り入れた。
まさか?
驚いて後を追いかけたが、車はこともなげに沖へ向かって沈んでいき、屋根まですっかり水没して見えなくなった。
水面に残った白い泡を呆然と眺めていたが、これは警察に通報した方がいいだろうかと思い至り、急いで家に帰って電話しようと振り向いた。
だが、やはり足元の砂地にはタイヤの跡が全くついていない。
たった今眼の前で確かに走っていたのに。排気ガスの臭いも残っているのに。
タイヤの跡をつけずに走れる車など普通ではない。これでは車がここにいた証拠そのものがない。
通報する気はもうなくなってしまい、その日は適当に貝を採って帰った。
その入り江で車を見たのはその時だけだったという。

靴下

幼い頃からSさんは扉の隙間が嫌だったという。ぴったり閉まっていない扉に数cmの隙間があると、それがたまらなく嫌に感じていた。
几帳面なためではない。そうした隙間があると、決まってそこに靴下を履いた足が見えるから嫌なのだという。
隙間の向こうに見えるのは足首だけで、毎度同じ靴下を履いている。紺と灰色の縞柄の靴下だ。
足首の主は仰向きに横たわっているようで、爪先が上を向いている。
物心ついた頃からずっと見えていたという。
初めの頃は嫌悪感を持っていなかった。何しろ当たり前のように見えていたから、それがそこにあるのだと疑うこともなかった。
だがあれは誰の足だろうと思って扉に近寄ると、途端にすっと見えなくなる。扉の向こうにもそれらしき人の姿はない。
扉に近寄らずに他の人に開けてもらっても、やはり足首はすぐ引っ込むように消えてしまう。
場所を選ばず、どこであっても扉に隙間があれば見えるが、他の人には全く見えていないらしい。
そんなことがわかってくると、Sさんもそれが嫌になってきた。あの足首はどうやらまともなものではないらしいと思うと、見るのが苦痛になってきたのだ。
家族にも扉をぴったり閉めるように言ったし、扉に隙間が空いているのを見つけると目を逸らしながらぴったり閉める。
そうやって注意していても時々それが目に入ってしまうことがあり、そのたびに苦々しい気持ちになった。


Sさんが大学生の時、母方の伯母がガンで亡くなった。
昔からSさんもかわいがってもらったので、大きなショックを受けながら伯母の家に向かった。
布団に寝かされた伯母は闘病生活ですっかりやせ細り、元気だった頃にはふくよかだった頬が削り落としたようにこけていた。
優しかった伯母の変わり果てた姿にSさんは涙をこらえきれなかったが、後に目を疑うようなものを見てしまったために、通夜から葬儀までずっと呆然としたままだったという。
それは納棺のときだった。
葬儀屋の手で伯母にかけられた布団が剥がされ、それまで隠れていた足が覗いた。紺と灰色の縞柄の靴下を履いている。
扉の隙間の足首と、今見ている伯母の足首が脳裏でぴったり重なった。
――あの靴下だ。


それ以来、扉の隙間から足首が見えるということは皆無になったが、今でもSさんは扉の隙間があると落ち着かないという。