四十三/ 蚊

ある夏の夜のこと。
Iさんは右腕に蚊が一匹とまったのを見て、グッと腕に力を入れて口が抜けないようにした。
見る見るうちに蚊の腹部が膨れてきたので、頃合と思い左の手のひらを叩きつけた。
その瞬間、予想もしなかった水音が響き、左手のひらと右腕の間から真っ赤な液体が飛び散った。
まるで水風船を割ったかのように勢いよく飛び散ったそれは、色といい鉄臭さといい間違いなく血液である。
飛沫はIさんの胸や顔面まで飛び散っていた。
ゆうにコップ一杯はあろうかという血が滴っている。
いくらなんでも蚊を一匹潰しただけでこんなに血が出るはずはないし、自分からこれだけ出血しているとも思えない。
混乱しつつ自室を出たところで母親にばったり会った。
「あんた何したんそれ!?」
血相を変えて聞かれたが「さあ……?」としか答えようがない。
ともかくも血を洗い流すと、別段傷もない。
数分してから蚊が止まっていた場所が僅かに痒くなったくらいだった。


それ以来、Iさんはなるべく蚊を潰さないようにしているという。