後煙

工場で働くMさんが休憩時間に外で煙草を吸っていると、後から年配の同僚であるKさんがやってきた。
お互い口数が多いほうではないし、それほど親しくしているわけでもない。
軽く会釈したきり無言で煙を吹かしていた。
すると突然、Mさんの背後から肩越しにふぅーっ! と煙が吹き付けられた。
えっ、何だ、と振り返ったが壁しかない。壁に背を向けて立っていたのだから当たり前だ。しかし壁から煙が吹き出すはずがない。
離れて立っていたKさんが小さい目を丸くして、呆然とこちらを見ている。何を見たのか。
今、見ましたよね、後ろから煙。そう尋ねたがKさんは曖昧に返事しながら目を逸らした。
その夜、Mさんは酷い腹痛と吐き気、高熱に襲われ、七転八倒した挙句に病院に担ぎ込まれた。
ウイルス性胃腸炎との診断で、二日間寝込んだ上にもう一日仕事を休んだ。
ようやく出勤できた日、MさんはKさんにもう一度尋ねた。あの日、何を見たんですか。
回復するまでの間、Mさんはずっとあの時何があったのか気になって仕方がなかったのだ。
Kさんは初めは誤魔化そうとしていたが、しつこく食い下がると折れてくれた。
――女だ。あの時な、壁から女がふっと浮き上がってきたんだ。
壁と同じ色をした女で、目の下から腰のあたりまでしかなかった。その女が口からふーっと煙を吐いたまま消えたんだよ。煙みたいに消えた。あれから俺もあそこで休憩するのはやめた。

それ以来Mさんは煙がどうにも嫌になって、ずっと禁煙しているという。

揺れる、叩かれる

Kさんの職場はビルの五階にあるので、毎日エレベーターで上る。
ある朝Kさんが一階でエレベーターに乗ると、なぜか一人きりになった。いつもであればその時間は出勤してきた人たちが続々と乗るのだが。
珍しいなと思いながら五階のボタンを押すと、すぐに扉が閉まった。
動き出して数秒で、エレベーターが妙に振動しているのに気がついた。
えっ、地震? と思わず声を上げる。
「違うねえ」
どこからか声がした。笑いをこらえるような言い方だった。
続いて、外から壁を激しく叩くような音が響く。
バンッ! バンッ! バンッ!
動いているエレベーターの外から、しかも天井でなく壁を誰が叩けるというのか。
何これっ!?
半分パニックになってKさんが声を上げると、目の前でドアが開いたので転げるように外に飛び出した。
目の前にスーツ姿の人が何人も立っている。
見回すとどういうわけか、一階のエレベーター前だった。エレベーターは上がっていたはずなのに。
同僚から怪訝そうな視線を向けられたが、適当にごまかしてその場を離れた。もう一度エレベーターに乗る勇気はなかったので、その日は五階まで階段で上がったという。

閉めずの扉

Tさんが高校生のときにOという友人がいた。
高校に入ってからできた友人だが、何かと気が合い、お互いに家に遊びに行くこともあった。
そうして何度目かにOの家に行ったとき、ふとTさんの目に留まったことがあった。
Oが二階にある自室のドアを閉める時に、いつもほんの少しだけ隙間を開けたままにしておくのである。
それもOの部屋だけでなく、二階の部屋はすべてドアが半開きか全開になっているのだ。
過去に遊びに来たときには気にしていなかったが、以前からそうだったのかもしれない。
理由をOに尋ねても、換気だとか何とか言葉を濁しながらそのまま開けておいてと言う。
換気なら窓を開ければいいのにと思ったものの、深く追求せずにいた。


高校卒業を控え、お互いに進路も決まり、高校最後の思い出としてTさんがOの家に泊まりで遊びに行くことになった。
やはりこのときも二階のドアは開いていた。
夜遅くまでOとゲームをしたり話したりして楽しく過ごし、午前三時を過ぎてようやくもう寝ようということになった。
布団に入る前に一階のトイレに行ったTさんは、階段を上がってから正面の部屋の前でなんとなく立ち止まった。
以前はOの兄が使っていた部屋で、現在は物置になっているという。やはりドアは半開きだ。
どういうわけか、Tさんはきまぐれにその部屋のドアを閉めた。半端に開いているのが前からどうにも気になっていたのである。
これでよし、と思った瞬間、目の前でドアがすっと開いた。部屋の中から誰かがノブを握っているのが隙間から見えた。
階段の照明に細く照らされたその顔は、Tさん自身だった。
部屋の中の人影はすぐに死角に隠れてしまったが、間違いなく自分の顔だという確信があった。
Tさんはそれ以来Oの家に一度も行っていないという。

水色の背中

Uさんの住む町内にひとつ、荒れた二階建ての民家があった。民家といっても人が住まなくなってもう十年以上経った廃屋だ。
人が住んでいた頃から既に古い建物だったらしいが、何かの事情で住人が出ていってからは老朽化が加速した。昨春の時点で屋根瓦は幾つも剥がれ、二階の壁板は派手に破れ、すっかり荒れてしまっていた。
悪いことにこの廃屋は住宅地の中で他の家屋に隣接していた。地震や大風でもあれば今に倒壊するのではないかと、周りの住民でも危険視する声も少なくなかったが、撤去や改築は簡単な話ではないようだった。家の持ち主は元々の住人のままらしいが、その人に連絡がつかない。市内にその人の親戚はいるものの、そちらからも捕まらないという。
そうしたわけで去年まで何年もの間、その廃屋は荒れ放題のまま誰も手を出さずにいた。


去年の七月、Uさんが偶然この廃屋の前を通りかかった。午後二時頃だったという。
何の気なしに廃屋の一階に目をやると、すっかりガラスの抜けた窓越しに人の背中が見えた。
一度視線を外してから見間違えかと思い、もう一度窓を見ると確かに男が背中を向けて立っている。
家の持ち主だろうか、それとも勝手に入り込んでいるだけだろうか。あるいは役所から様子を見に来たのかも知れない。
そのまま通り過ぎようとして、また何気なく視線を上げたUさんは思わず脚を止めた。二階の破れた壁の向こうにも、一階と全く同じ後ろ姿が見えるのだ。
再び一階に目をやっても、やはり同じ場所に背中と後頭部がある。どちらも同じような体格と刈り上げた頭で、水色のシャツを着ている。
何度視線を行き来させても、同じ後ろ姿にしか見えない。まるで間違い探しだ。
蝉の声が響く中、二つの後ろ姿は微動だにしない。かといって人形にも見えない。人間だ。
Uさんは彼らに声を掛けようかと一瞬考えたが、思い留まった。
全く同じ顔が全く同時に振り返るところを想像してしまい、無性に気味が悪い。無言でそこを立ち去った。


その二ヶ月後、台風のせいでいよいよ斜めに傾いだ廃屋は、今まで長らく放置されたのが嘘のように速やかに解体されてしまった。
今では空き地になっているその前を通るとき、Uさんはどこかにあの水色のシャツを着た後ろ姿があるような気がして、つい見回してしまうという。

最初の挨拶

小学校教師のHさんの話。
新しく赴任する学校に初めて行った時のこと。
校長先生に挨拶するために校長室に向かう廊下で、子どもたちに出くわした。三年生か四年生くらいの男の子たちが五人、賑やかに話しながら歩いてくる。
そしてHさんに元気よく挨拶してきた。
「こんにちはー!」
Hさんも笑顔で挨拶を返したが、彼らの奇妙な格好が気になった。
顔から手足まで、肌という肌を鮮やかに赤や青や緑やら、それぞれ一色に塗っている。
服装には特に奇抜なところはなかったが、何かのイベントのための仮装だろうか。
彼らが去っていったほうを振り返ったが、もう後ろ姿は見えず、声も聞こえなかった。
校長室に入ったHさんは、先程廊下で会った子供たちが元気に挨拶してくれたことを話した。すると、なぜか校長先生は嬉しそうに微笑んだ。
今日児童はみんな午前で帰ったんですよ、と言う。
じゃああの子たちは何してたんでしょう、と尋ねると、校長先生はまた微笑んで言った。
ですから児童は校舎内には残ってないんですよ。
話がよくわからないと怪訝な顔をするHさんに、校長先生は続ける。
新しい先生がいらっしゃると、たまにそういうことがあるようです。気に入った先生じゃないと現れないと聞いています。元気に挨拶してくれたんでしょう?
多分、気に入られた証拠ですよ。


翌年、別の先生が新たに赴任してきたときにも同様のことがあったという。

初雪

大学生のUさんが朝起きて窓のカーテンを開けると、外は一面の雪景色だった。その冬初めての雪だ。
雪はもう止んでいたが、アパートのベランダにも数センチほど積もっている。
溶けるまで外に出たくないなあ、などと考えていたところ、ふとおかしなものに気がついた。
ベランダの中央あたりの雪面に、人の足跡がひとつだけ残されているのだ。
こちらを向いた裸足の足跡で、五本の指や土踏まずがよくわかる。大きさからして大人の足だ。
もちろんUさんが点けたものではない。
窓を開けてもっと近くで見ようと思ったところではたと心配になった。
ベランダから侵入した誰かの足跡?
慌ててガラス越しに外をよく見たが、ベランダには誰の姿もない。一畳ほどのベランダには隠れる場所もない。
とりあえず安心してガラスを開けたUさんだが、近くで見てもやはり足跡だ。
しかし誰がどうやってそれを点けたのかがわからない。何しろベランダの他の部分の雪は一切乱れていないのだ。
ベランダの手摺の上にも雪が積もっているから、手摺を乗り越えて誰かが入ってきて足跡を点けたとは考えられない。
仮に雪が積もる前にベランダにやってきて、積もった後に足跡を点けて去っていったとしても、足跡以外に雪を乱さず立ち去ることは不可能だ。隣の部屋のベランダには仕切り板があるし、それを越えて行くにしてもやはり雪に他の足跡が残る。
窓からUさんの部屋に入れば足跡は点かないが、今しがたまで窓は施錠していたしもちろん誰も部屋に侵入してなどいない。
空の上から降りてきた誰かが片足でベランダに着地し、再び上に飛んでいった姿が頭に浮かんだが、いくらなんでも荒唐無稽だと頭を振った。
全く腑に落ちないものの、そのままではいずれ雪が溶けて足跡も消える。証拠として写真を撮っておこうと考えたUさんは携帯電話に手を伸ばした。
するとちょうどそこに電話がかかってきた。こんな朝から誰かと思えば高校時代の友人からだ。
出てみると、訃報だった。共通の友人であるFが亡くなったという。
UさんとFは郷里の茨城を離れてそれぞれ別の県の大学に通っており、卒業以来一度も会っていなかった。
スキー旅行に出かけたFはスキー場で誤って木に衝突し、病院に搬送されたものの三日間ずっと意識が戻らず、昨晩息を引き取ったのだという。
Uさんの脳裏で、Fの顔とベランダの足跡が結びついた。あれはFが点けたんじゃないか。
電話しながらもう一度ベランダに視線を向けたUさんだったが、どういうわけか足跡が見えない。
雪はもう降っていないから上から積もったはずがない。しかし今しがた足跡があったはずの場所も雪面がなだらかで、足跡など初めからなかったようにしか見えない。
半分上の空で通話を切った後もベランダの雪を観察したが、やはりどこにも足跡などない。しかし先程見た足跡は決して見間違えではない。
やはりあれはFが来ていたしるしだったのだろうか。
来たなら声くらいかけていけばよかったのに。そう雪に向かって呟いたが、返事はなかった。

土器

三十年以上前、Eさんが小学生の頃のこと。
当時会計事務所に勤めていたお父さんが、ある晩上機嫌で帰ってきたかと思うと、いいものを拾ったと言ってビニール袋に入ったものを取り出した。
ひと目見たときは土のかたまりかと思ったが、よく見るとそれは土器の破片らしく、表面に縄目の模様がついている。眼鏡のレンズくらいの大きさの欠片だったが、大きな器の一部らしき緩やかな曲面になっているのもわかる。
これどうしたのと聞くと、工事現場で拾ったんだという。
その頃市内では高速道路の工事が行われていた。帰りにそこを通りかかった時、掘り起こした土を盛ってある中に土器が混じっていることに気づき、ひとつ持って帰ってきたのだという。
それって遺跡だったってことでしょ、勝手に持ってきていいの? とEさんが問うと、お父さんは笑った。
こんな小さい欠片ひとつだけだし、大丈夫だよ。そもそもこういう欠片がもっと沢山土に混じっていいかげんに積まれてたんだから、まともに調査するつもりもないんだろう。
お父さんが嬉しそうだったのでEさんもそれ以上は追求しなかったが、不思議ではあった。それまでお父さんは歴史に興味がある様子など見せたことがなかったからだ。


土器を拾ってきたことがきっかけだったのか、それとも他に何かきっかけがあったのかはわからないが、この頃からお父さんの様子が明らかにおかしくなったという。
日中は仕事に行っているからどうだったかわからないが、仕事から帰ってくると例の土器をさも愛おしそうに眺めたり撫でたりして過ごすようになった。
また、夜中に起き出して食料を漁るようになった。夕食はしっかり食べているのに真夜中になるとひとりで起き出して台所にある食べ物を手当たりしだいに食べ散らかす。
Eさんは眠っていたのでそのことに気が付かなかったが、お母さんが気づいてやめさせようとした。しかしいくら止めてもおさまらず、終いには米びつの生米まで齧り始めたという。
ある時は自分でも土器を作ると言い出して庭の花壇の土を水で捏ね、いびつな皿のようなものを作って焚き火で焼いた。当然そんなものがまともな土器になるはずもなく、火の中で湯気を上げながら粉々になったが、お父さんは泥だらけで嬉しそうに微笑んでいたという。
お母さんはだんだんと憔悴していったが、なぜかそれに輪をかけてお父さんのほうがやつれていった。
これは明らかにおかしいと、お父さんを医者に診てもらうことにした。しかし本人はイヤだと言って聞かない。
仕方なく親戚のおじさんに応援を頼んで、力づくで連れて行った。
検査した結果肝臓に異常が見つかり、半年の入院の末、お父さんは骨と皮だけになって息を引き取った。
拾ってきた土器は行方知れずだという。