薄氷

十二月のある朝、Eさんが煙草を吸いにマンションの自室でベランダに出ると、当然のことながら空気がひどく冷えていた。
五階なので風が吹き抜けることも多いのだが、その日は風はほとんどなかった。しかしそういう日の方がかえって冷え込みが厳しいものだ。
それでも朝起きてすぐに一服するのはEさんの日課なのだが、部屋の中で吸うと奥さんに叱られる。しかしこれは流石に寒いので、早く吸ってしまおうと煙草に火を点けた。軽く吸って吐いたところで、ふと傍らにあるポリバケツに視線が向いた。
ずっとベランダに出しっぱなしにしているのでバケツの中には雨水が溜まっているのだが、寒さのためにそこに薄く氷が張っている。タバコを咥えながら、Eさんは何となくしゃがみこんでバケツの氷を覗き込んだ。
子供の頃は通学路の水溜まりに氷が張ってると踏んで割ったりしたなあ……などとぼんやり思い出に浸りながら氷を指先でつつこうとすると、その下で何かが動くのが見えた。
Eさんが目を凝らすと、氷の下には数匹の小さな蟹がいて、バケツの底をゆっくりと歩き回っている。
は? 蟹? なんで?
よく見てみたが、やはり蟹だ。3〜4cmくらいの灰色の蟹が全部で五匹いる。
五階のベランダである。蟹が他所から勝手に入り込んできたはずがない。
誰かが入れておいたのだろうか。しかしEさんは奥さんと二人暮らしで、奥さんが蟹なんか捕まえてくるようには思えなかった。他の誰かがベランダに侵入して蟹を置いていくなんてことも考えにくい。
一体なんなんだ……と思いながら、もっとよく見てみようとEさんは水面の氷を摘んで持ち上げてみた。
さざなみ立った水面を再び覗き込んだEさんだったが、なぜか蟹の姿がどこにもない。えっ、と訝しんだEさんはバケツを傾けて隅々までよく覗いてみたものの、バケツの底にはうっすら泥が沈んでいるだけで、蟹どころか生き物の姿などひとつもない。もちろんバケツの周りにも蟹などいない。
穴が空いていてそこから逃げていったのかな? とも思ったもののそれらしきものは見当たらないし、そもそも蟹が通れるような穴が底の方に空いていれば水が溜まっているはずもない。
先程取り出した氷をバケツに戻してみたものの、やはりその下に蟹などはもう見えなかった。
後で奥さんに蟹について聞いてみたものの、なにそれ気持ち悪い、と顔をしかめられただけだった。奥さんはそれ以来ベランダのバケツを逆さまにして水が溜まらないようにするようになったという。