大浴場

Rさんが友人の結婚式に出席するために新潟へ行ったときのこと。
二次会が終わって友人が用意してくれたホテルに戻ってきた時にはもう日付が変わっていた。
寝る前に汗を流してくるか、と大浴場へと向かった。
夜も遅く、大浴場が閉まる時刻まであまり余裕もなかったので他に入浴中の客もいない。
酒が入っていい気分になっていたRさんが鼻歌まじりに湯に浸かっていたところ、背後で洗い場の蛇口から水を出す音がした。
振り向くといつ入ってきたのか、誰かが白い背中をこちらに向けて洗い場に座っている。
小さい背中から見てせいぜい小学生くらいの体格だ。
誰もいないと思って鼻歌を歌っていたのを聞かれたと思ったRさんはきまりが悪くなってそろそろ上がろうとした。
横目で洗い場の方を見ながら大浴場から出たが、座っている人物はうつむいたまま洗い桶に溜めた湯をバチャバチャかき回していて、顔は見えなかった。
Rさんは脱衣場で浴衣を着ながら、なんであんな小さな子がこんな夜中に一人で風呂に?と首をかしげた。そして何気なく大浴場の扉に視線を向けたとき、思わず叫びそうになってしまった。
大浴場の扉のすりガラスに、向こう側から小さな手のひらがふたつ張り付いているのだ。
しかも奇妙なことには、見えているのは手のひらだけでその手の持ち主の姿が全く見えない。
誰かがガラスに手のひらを当てているならば体も透けて見えるはずなのに、ガラス越しにうっすら見えるのは大浴場の床くらいだ。
さっきの子どもだろうか。何のいたずらだ。大人をからかうんじゃない。
酒のせいか、驚かされてかっとなったRさんは大浴場の扉に走り寄り、勢い良く開け放った。
誰もいない。
中へ入って探してみたものの、洗い場にも、浴槽の中にも、大浴場の中には誰の姿もなかった。
ただ、扉のすりガラスには先程付けられたらしき小さな手形がふたつ、べったりと残っていたのだという。