ヌルヌル

二年ほど前から、Nさんの職場では「ヌルヌル」と呼ばれる悪戯について語られるようになった。
駐めておいた車のハンドルに、何かヌルヌルしたものを塗りつけられる悪戯だという。
ヌルヌルしているだけではなく、何か強烈な生臭さも車の中に残されているので、やられた方はたまったものではない。
被害にあうのはNさんの職場を含む一帯に駐めてある車ばかりだという。
Nさんの職場内でも何人かの車が被害にあっていた。
車内に悪戯をしているのだから少なくとも車内には何者かが侵入しているのだろうが、実際何かを盗られたという話も聞かれない。
ただ車内に厭な悪戯をしていくだけとあって悪意しか感じられず、そこがまた不気味だった。
何度か警察に通報したこともあったようだが、被害にあった車の近くで不審な人物を目撃したという話も無かったらしく、犯人は捕まらなかった。
そしてある日、Nさんが仕事で会社の車を運転したときのことである。
荷物を取引先に運び、まっすぐ会社に戻ってきた。
あとは車を車庫に入れるだけだったのだが、ちょっと喉が乾いていたので会社の近くに設置されている自動販売機の前に車を駐めて、缶コーヒーを買った。
社に戻ってからでもコーヒーくらい飲めるが、戻る前に一息つきたかったのだという。
コーヒーを片手に運転席のドアを開けたNさんは、乗り込もうと片足を踏み出したその姿勢のまま硬直してしまった。
ハンドルがつやつやと照り輝いている。
そう気づいたのと同時に、Nさんの鼻腔を生臭い悪臭が付いた。
「ヌルヌル」だ!
Nさんは反射的にドアを閉め、周囲を見回した。
しかし特に誰の姿も見当たらない。
それからNさんはたった今の出来事を振り返って、どうにもおかしいと首を捻った。
Nさんが車から降りていたのはほんの一、二分間だけだったし、車を背にしていたのも数秒間でしかない。
その間、誰かが車に近づいてきた気配はなかった。
そもそも、コーヒーを買っている間に車のドアを開閉する音を聞いていないのである。
誰も車の中には入れなかったはずなのだ。
それならば一体、こんなことをしでかした犯人は何者なのか?
しかしそれ以上考えてもわからないので、Nさんはハンドルを念入りに拭いてから窓を全開にして車庫まで帰った。


その後も「ヌルヌル」の被害は続き、それは今でもあるのだという。