不動産会社に勤めるKさんが独身の頃、同僚のTさんから深刻な顔で頼み事をされた。
一度家に泊まりに来てくれないか、と言う。
それまで特別親しくしていたという相手でもなかったので、まず理由を聞いてみた。
するとTさんは少し躊躇してから、最近よく眠れないんだ、と言う。
毎晩のように奇妙な夢を見る。
最初ははっきりしない夢だったが、日を追うごとに内容が鮮明になってくる。
夢の中では、髪を腰の辺りまで伸ばした知らない女に追いかけられる。
追いかけられるといっても走って追ってくるのではなく、ゆっくり歩いて付いてくる。
こちらがどれだけ走って逃げても、どこまでも後を追ってくる。
その夢のせいで近頃は毎晩、汗だくになりながら目を覚ます。
すると、部屋の中の物の配置が寝る前と比べて、少し違っているような気がするのだという。
こんな調子では安心して眠れない。
夢はただの夢だとしても、家具の配置についてはどうも毎日気になって仕方がない。
だからKさんが一度家に来て、家具が動いていないかどうか確かめてくれないか、というのである。
Tさんは他県の出身で一人暮らしをしていて、近くにはほとんど知り合いもいない。
頼めるのはKさんくらいなんだ、と言われて仕方なく引き受けることになった。
正直な所、怪奇現象に多少興味のあったKさんはそれなりに興味深々ではあったという。
Kさんはその週の金曜の夜にTさんのアパートに泊まりに行くことにした。
景気づけに二人でビールを呷りながら買ってきた惣菜で食事を済ませ、日付が変わる頃に床に就いた。
Kさんも約束通り家具の配置を確かめると、用意された毛布を被って横になった。
すぐに眠りに落ちて、しばらくしてからのことである。
誰かの唸り声でKさんは目を覚ました。
まだ窓の外は暗い。
部屋の中で聞こえている唸り声はTさんのもののようで、だいぶ苦しそうに呻いている。
床で寝ていたKさんは、そこで何気なくベッドの上を見上げてぎょっとした。
Tさんが寝ている枕元に、誰かがいるのである。
一瞬Tさんが起き上がっているのかとも思ったが、Tさんは確かにベッドに横になっている。
その枕元に、黒っぽい誰かがうずくまっている。
部屋が暗いせいもあるが、窓から差し込む街灯の薄明かりに照らされてもやはり真っ黒にしか見えない。
黒い布か何かを被っているのかもしれなかった。
驚きのあまりそのまま固まってしまったKさんだったが、よく見てみるとその黒い影は腕をTさんの頭の辺りに伸ばしていた。
その指が奇妙に長い。
肘から手首くらいの長さはありそうなほどの細い指が動くのが、暗い中でもはっきり見えた。
そして黒い影は、指先でTさんの頭頂部の辺りをなぞり始めた。
Tさんが苦しそうに呻く。
黒くて長い指がTさんの頭を引っかくたびに、さりっ、さりっと小さな音が聞こえた。
その様子がとてつもなく気味悪く、耐え切れなくなったKさんは「わっ」と大声を上げた。
黒い影はその声に驚いたのかどうか、急に壁に吸い込まれるように消えた。
もう家具の配置どころの話ではなかった。
結局Tさんは、それからすぐ仕事を辞めて郷里に帰ってしまったという。