犬がいる

ショッピングモールの警備員をしていた人の話。
「店内に犬がいるんですけど……」
店員からそう言われることが何度か続いた。
いずれも閉店後のことであり、営業時間内にそういう報せがあったことはなぜか一度もなかった。
店員達の話を聞いてみると目撃した状況はみな似たり寄ったりで、店を閉めて帰ろうとすると、暗い通路の向こうに犬が歩いてゆくのが見えたという。
犬の姿も一致していて、茶色の中型犬だったとのことである。
実害は確認されていなかったが、モールの中には食料品店や飲食店がある。
営業時間内に現れていないのは幸いだが、放っておくわけにもいかない。
しかし捕まえられなかった。
犬を見たという報せがあるたびに警備員二人がかりで捜しに行くものの、犬などどこにもいない。
二手に分かれて反対側から回り込んでも、どこに隠れたのか、犬の姿は全く見つからなかった。
店内の防犯カメラにも犬が映りこんだことは一度もないし、カメラの死角になるような位置には犬が入れるような出入り口はない。
警備員の間では侵入した犬の存在を疑問視する声もあったが、店員からは相変わらず「犬を見た」という声が出る。
そこで閉店後の見回り回数を増やし、毎日二人がかりで三回見回ってから施錠することになった。
そうして二週間ほど経ったある晩のことである。
閉店後、二回目の見回りの時刻になった。
一回目の見回りは閉店直後、二回目はそれから一時間後と決まっている。
各店舗の店員も後片付けを終えて、揃って帰り始める頃合である。
灯りが消えた店舗も多く、薄暗い通路を歩いてゆくと、突き当たりで何かが動いたのが見えた。
店員が屈んで作業をしているのかとも思ったが、どうも動きがおかしい。
膝くらいの高さのものが、左右に小刻みに動き回っていた。
屈んだままあんなに素早く動くのは、人間離れしている。
そう思った瞬間、犬の件が頭を過ぎった。
見回りを増やして以来目撃例が絶えていたので忘れかけていたが、そもそも見回りが増えたのは犬のせいなのだ。
あれがその犬に違いない。
今日こそ尻尾を掴んでやる。
そう考えて、犬に気付かれないように足音を殺し、物陰に隠れながら近付いていった。
近付くにつれて、薄暗い中でもだんだん犬の姿がはっきり見えるようになってきた。


犬ではなかった。
茶色っぽいのは目撃例の通りだったが、足も頭もない。
細長い形をした何かのかたまりが、床の上を音もなく跳ね回っていたのである。
遠目では見ようによっては犬に見えなくもなかったが、近付いてみれば犬どころではなかった。
それが一体何なのか、さっぱりわからない。
半ば呆然としながらも、もっとよく観察するために更に近付こうとした。
すると靴底が床のタイルに擦れ、キュッと高い音が鳴った。
あっ、と思った時にはもう茶色のかたまりは跡形もなく消え失せていた。
一瞬にして見えなくなったという。
この時見たものは何とも報告のしようがなく、その日の警備日誌には「異常なし」としか書けなかった。
「閉店後に犬を見た」という報告はその後も何度か寄せられたものの、結局犬が見つかることは遂になかったという。


余談ではあるが、このショッピングモールは先の震災で半壊し、その後取り壊されて現在は更地となっているとのことである。