来ない母親

以前保育園で保母をしていたUさんの話。


ある日、Yちゃんという子供だけがいつもより遅くまで残っていた。
毎日迎えに来ている母親が、その日はまだ来ていなかったのである。
一人だけ帰れずにいるためにYちゃんも心細くなってしまったようで、泣きべそ寸前だった。
遅くなるという連絡は受けていなかったので保母たちも心配していたところに、一本の電話が掛かってきた。
Uさんが出てみるとYちゃんの母親である。しかしなにやら少し語気が荒い。
「あの、今日は保育園はどうかしちゃったんですか?みなさんどちらに?」
「はい?いえ、特に変わったことはありませんよ。Yちゃんもお部屋の中でお母さんを待ってますので」
「だって、私今保育園にいますけど、中に誰もいないじゃないですか!どこ行ったんですか!?」
「え?どこにも行ってないですけど……。何か勘違いされては……」
「そんな勘違いとか……。あれ?……ちょっと」
電話は急に切れた。
さっぱり訳のわからないUさんが同僚に今の会話の内容を説明していると、五分かそこらでYちゃんの母親がやってきた。
車から転げるように降りてきた母親は、Yちゃんの手を握ると挨拶もそこそこに帰っていった。
妙に狼狽した様子で、どうも只事ではなさそうに見えた。


それから十日ほどでYちゃんはその保育園を去った。急に引っ越すことが決まったらしい。
詳しいことは聞かずじまいだったので引越しのことと、あの日母親が遅くなったこととの間に関係があるとも言えないのだが、Uさんにはどうも気になったという。
少なくとも、保育園から五分やそこらで行き来できるような場所に、保育園と間違えるような似た建物はない。
ならばあの時、Yちゃんの母親はなぜ保育園に「誰もいない」などと言ったのだろうか?
電話をかけてきたとき、彼女がいたのは一体どこだったのだろうか?
Uさんはそれがずっと引っ掛かっているという。