八十六/ 釣り禁止

Hさんが通っていた大学の広いキャンパスの端には、何かの実験用に作られたという小さな池があった。一体何の実験で使われるのか、はっきり知っているという学生もいなかったというが、ただ「この池で釣りをしてはいけない」という決まりだけは皆よく知っていた。だがその理由となるとこれまた誰も知らず、ただそこで釣りをした学生は単位がもらえなくなる、とか強制労働させられる、といった噂だけが一人歩きしていたらしい。
この池はHさんの所属していたサークルの部室から丁度良く見える位置にあったので、Hさんは毎日のようにこの池を目にしていた。
ある日の夕方、いつものように部室の窓から何気なく池を眺めたHさんは、その畔に誰かが座っているのに気付いた。顔は向こうを向いていて見えないが、服装や頭髪の感じからして若い、学生のように思える。よく見るとその人影は長い棒を池の方に突き出している。どうも釣りをしているらしい。
(あの池が釣り禁止なのを知らないのか? それともわかってやってるのか? )
気になってじっと見ていたが、人影はまるで置物のように動かない。眺めているHさんも段々飽きてくる。
そうしていると、部室に入ってきた先輩がHさんに声を掛けてきた。Hさんは「先輩、あの池で釣りしてるやつが……」そう言いながら窓の外を指差す。
するとその時、池端の人影は薄暗い中でもうほとんどシルエットになっていたが、その黒い影がぼろぼろとまるで砂山のように崩れて池の中になだれ込んでいった。後には波紋だけが残る。
目を丸くして絶句したHさんに、何かを察した先輩が言った。
「あそこはそういうのよくあるみたいだから、あんまり気にしない方がいいよ」
Hさんは今見た出来事よりも、当たり前のように話す先輩の方が薄気味悪く感じたという。