八十三/ 山の温泉宿

Nさんが当時付き合っていた男性と一緒に那須の山中にある温泉宿に行ったときのことという。
宿の周りを散策しているうちに日が暮れてきて、夕食前に一風呂浴びてこようということになった。
Nさんが脱衣所に入ると、曇りガラスの引き戸越しに浴場からお湯を流す音や桶を置く音が響いてきた。客間の方ではあまり他のお客に出会わなかったが、浴場にはどうやらいくらか人がいるようだった。
しかし引き戸を開けて、Nさんは首を傾げてしまった。中には誰もいないのである。物音もしなくなった。それでもNさんは、気のせいだろうくらいにしか思わずに洗い場で体を洗い始めた。石鹸の泡を流して湯船につかろうとした時、窓越しに露天風呂が見えた。それでNさんは先ほどの物音に合点がいった。露天風呂に何人か、中年女性がのんびり浸かっているのが見えたのだ。先ほどの物音は彼女達が出していたのに違いない。Nさんが浴場に入る直前に、露天風呂のほうへ移ったのだろう。
いささかほっとしてNさんは内風呂にしばらく浸かっていたが、しばらくして露天風呂のほうにも入ってみたくなった。しかし露天風呂へのガラス戸を開いたNさんは、再び首を傾げてしまった。さっき露天風呂にいたはずの人たちが、やはりどこにもいなくなっているのである。
露天風呂からの出口は、今Nさんが開いたガラス戸のみである。Nさんが内風呂に浸かっている間、誰も露天風呂から戻っては来なかった。まさか露天風呂から裸のまま直接外へ抜け出したとも考えられない。
そこでふとNさんはあることに思い至った。脱衣所の籠には、Nさん以外の衣類がまったく入っていなかったのだ。ならば先ほどの女性達はそもそもどこから入っていたというのか。
流石に気味が悪くなって、Nさんはそれからすぐに浴場を出た。女風呂の暖簾を潜ると、丁度隣の男風呂から彼氏も出てきたところのようだった。しかし、彼氏も何やら難しい顔をしている。何かあったのか、とは聞けなかった。
一泊してその宿を出たが、他の宿泊客には結局会うことがなかったという。