引き波

利根川下流にある町でのこと。
Aさんが趣味の川釣りに出かけた。
向かったのは市内にある見通しの良い河川敷なのだが、あまり他に釣り客がいないポイントで、Aさんのお気に入りの場所だった。
昼過ぎくらいから天気が崩れてきて、程なく小雨が降ってきた。
魚にこちらの音が聞こえにくくなるためか、多少雨が降っている方が釣果が良い。
だからAさんもそのまま釣りを続けた。
水面を眺めながらじっとしていると、不意に波が押し寄せて来た。
船が航行するときの引き波である。
しかしAさんは釣りに集中していたためか、船が通り過ぎたとは気が付かなかった。
波が去っていった方に目をやってみても船はもう見えない。
ちょっと疲れてもきていたので、もう少ししたら帰ろうか、と思ってまたウキの動きに眼をやった。
すると、また少し経ってから再び、先程のような波が来た。
Aさんも今度は確信を持った。
船は一艘も通っていない。
対岸まで見渡せるような川幅である。船が通れば気が付くはずだった。
ということはこの波は、船以外の何かが立てたものだということになる。
波の原因が気になったAさんは、もう一度同じ波が来ることを願いながら、じっと対岸までの川面に目を凝らした。
それから数分ほどして、Aさんの視界の端に何か動くものが写った。
何かぼんやりとしたかたまりが、川の中程の水面を滑るように移動している。
よくよく目を凝らすと、それは直立した人間に見えた。
ぼんやり見えるのは、半分透き通ったような色をしているからだった。
まるでボートに引かれずに水上スキーをしているようにも見える。
その半透明の人型をした何かの後に、きれいなV字型の引き波が立っている。
人型は、そのままAさんの視界を横切ってゆき、だんだん薄くなって消えた。
後に残った引き波だけが、少し遅れてAさんの足元に届いたという。