海鳴り (66/100)

船乗りだった彼女の夫が、海難事故で亡くなった。
彼女は、葬儀が済んでもお骨を手元から離そうとはしなかった。部屋の一隅に設けた簡素な祭壇に、遺影と並べていつまでも骨壷を置いておく。
納める墓地に困っているわけではないのに、いつまでも手元に置いておくのはなぜだろう。まだ、彼と離れる決心がつかないのか。彼が死んだ現実を受け入れきれていないのか。
夫婦の間に子供はなかった。たった一人きりで骨を抱いて過ごす彼女を、友人として放っておけなかった私は、アパートを訪ねた。
会うのは葬儀以来だったが、彼女は案外明るく、夫の死から立ち直れていないようにはとても見えない。
祭壇には、やはり白い陶器の骨壷。わざとそちらを見ながら、意を決してはっきり聞いた。
「まだ、お墓には入れてあげないの? 」
彼女は困ったように微笑んだ。
「別に、現実が受け入れられないって訳じゃ、ないんだよ」
「じゃあ、何でここに置いたままなの? 見えるところにあると、辛くなるだけじゃない? 」
彼女は嬉しそうに、辛くなんてないよ、と言った。そして続ける。
「骨は、海なんだって」


あの人が、いつか言っていたの。大昔、海の魚が川へ進出しようとした時、困ったことに川の水には生きていくうえで大切な栄養分が少なかった。それを解決するために、魚は骨という形で大事なミネラルなんかを蓄積した。そうやって海を体内に持つことで、初めて魚は川に住みつくことができた。海魚より川魚のほうが小骨が多いのは、そういうわけなんだって。
人間も、他のけものも、もとは川魚から進化したものでしょう。だから、私たちの骨も、もともとは海なの。
あの人、海が好きだったでしょう。私よりも海のほうが好きなんだって、つまらない嫉妬をして、何度も困らせたこともあった。だから、死ぬのも結局私の傍じゃなくて海だったんだって、あの時は随分情けなかった。海にあの人を取られたように思ったの。
でもね、あの人がこうなって帰ってきて、受け取った時、中から海鳴りが聞こえてきたの。海の風景さえ目にはっきり浮かんだ。その瞬間、ああ、あの人は海になったんだって、この骨はあの人で、同時に海なんだって、そう感じた。わかったの。
それから、毎日耳を当てて海鳴りを聞いてるの。そうすれば、私の中にもある海があの人と一つになれるみたいな気がして、寂しくなくなるんだ。あの人はここにいるんだって、あの人が行ってしまった海はここにあるんだって、そう思えるの。


「――海鳴り? 」
「聞いてみて」
そう言って彼女は骨壷を差し出した。
恐る恐る受け取ると、陶器の肌にゆっくり耳を近づける。何も聞こえない。やはり彼女の妄想に過ぎないのだ。
いささか暗澹としながら、無言で骨壷を返した。
彼女は微笑んで、いとおしそうに受け取る。
手渡す時、ちゃぷんと中で水音が鳴った。思わず息を呑んだ瞬間、潮の匂いが鼻をかすめた、気がした。



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百物語
お題:海