入り江の車

海辺に住んでいた人から聞いた話。
家から徒歩五分のところに入り江があり、時々そこで貝やカメノテなどを採って食卓の足しにしていた。
ある日の夕方にまた貝でも採ろうとしたところ、入り江の砂浜の上に一台の車が停まっているのが見えた。白っぽい色のワゴン車だ。
思わず目を疑ったという。
というのも、その入り江は道路から階段を五メートルほど下りていかなければ行けないところで、車で入れる道は繋がっていない。周囲は岸壁や岩場で囲まれているから海の方から回り込むことも不可能だ。
階段は人ふたりがやっと並んで歩けるくらいの狭いもので、角度も急だ。ワゴン車が走って下れるようなものではない。
そうなると上の車道から転落したのだろうか。それにしては周囲の砂地が乱れていないし、転落して車が無事な高さではない。
首を捻りながら階段の上から眺めていたが、よく見ると更におかしなことに気がついた。
砂地が乱れていないどころか、車の周囲にタイヤの跡が見当たらないのだ。
つまり走ってあそこまで行ったわけではないということで、クレーンかヘリコプターで下ろしたのだろうか。
何のためにそんな大掛かりなことをしたというのか。
周囲には誰の姿もない。撮影か何かのためにやったにしては人気がなさすぎる。
どうにも腑に落ちない。怪しい。
変なものには近づかないほうがいいと判断して、その日は入り江に下りずに帰宅した。


翌日また入り江に行くと、車は同じ場所にあった。前日と同じ向きで同じように停まっている。一晩ずっと同じ場所にあったのだろうか。
ずっと停まっているということは、放置されているのだろうか。
誰も乗っていないのならば、入り江に下りても大丈夫だろうか。
恐る恐る階段を下りていくと、眼の前でワゴン車のエンジンが掛かった音がした。
誰か乗ってる!?
運転席はこちらからは見えない。
そのまま動き出したワゴン車は海に向かってまっすぐ進み、速度を緩めずに水の中へと乗り入れた。
まさか?
驚いて後を追いかけたが、車はこともなげに沖へ向かって沈んでいき、屋根まですっかり水没して見えなくなった。
水面に残った白い泡を呆然と眺めていたが、これは警察に通報した方がいいだろうかと思い至り、急いで家に帰って電話しようと振り向いた。
だが、やはり足元の砂地にはタイヤの跡が全くついていない。
たった今眼の前で確かに走っていたのに。排気ガスの臭いも残っているのに。
タイヤの跡をつけずに走れる車など普通ではない。これでは車がここにいた証拠そのものがない。
通報する気はもうなくなってしまい、その日は適当に貝を採って帰った。
その入り江で車を見たのはその時だけだったという。