拳王はそんなこと言わない

ラオウの葬儀に著名人が参列。ファンも殺到!(Yahoo!ニュース)
北斗神拳を本邦に伝えたのは弘法大師空海だったんですか。
遣唐使は大変なものを伝えてくれました。

安らかにという言葉を掛けたいと思ったんです

だがちょっと待ってほしい。
果たしてあの拳王が安らかな死後の眠りを望むでしょうか。
ケンシロウも原作最終回に言っていました。
オレの墓標に名はいらぬ、死すならば戦いの荒野で、と。
ラオウも同じではないでしょうか。
だってあのラオウですよ。
非暴力非服従を示した老人を躊躇なく殴り殺すあのラオウですよ。
拳の師であり養父であるリュウケンに望みを聞かれてただ一言「天……」と答えたラオウですよ。
そのリュウケンすら己の手にかけたラオウですよ。
ただひとり並ぶものなき天の高みを目指し、拳を天に向けたまま息絶えた男ですよ。
いつの間にか子供がいたことになってたラオウですよ。それは関係ないか。
そんなピカレスク野郎に安らかな眠りなど必要ありませんし、そんなもの似合いません。
もっと言えば葬儀すら不要です。
死んだら終わり、それで充分です。
彼がもし己の葬儀を見たら何と言うでしょう。


「オレはまだ死んでおらん! 」


間違えた。
そういう意味じゃない。


「何をしている! そんなことをオレがいつ望んだ! 」


こう言うのではないでしょうか。
その場の全員剛掌波の餌食です。
彼の死を悼むな、というのではありません。
ラオウを追悼するなら、当たり前のやり方では生ぬるいと言いたい。
覇王には覇王にふさわしい弔い方があろうというものです。
少なくとも、ただ「安らかに」なんて覇王に対して冒涜もいいところです。
それだったら葬儀で香炉の灰をばらまいた方がよっぽどマシです(信長メソッド)。
ラオウ追悼天下一武闘会ラオウ杯)などモアベターです。
黒王号にちなんで競馬で「黒王杯」をひらくのもよろしい。(類義語:「松風杯」)
ラオウが生涯をかけて目指したのはあらゆるものの頂点に君臨することでした。
それは、誰かの共感や理解を得る為の行為ではありません。
ラオウという男の生き様に共感したり勇気を貰ったりするのは、全く他人の勝手なわけです。
ラオウ自身がそれを望んでそうなっているわけではない。
似た例を思い出しました。関羽
ご存知のように三国志の武将関羽は現在神として祀られています。
別に関羽も生きている間に神として祀られるなんてこれっぽっちも思っていなかったでしょう。
ですから同じようにラオウも神にしてしまおうではありませんか。
死後に弔うのも神として祀り上げるのも後に生きる人間の勝手です。
しかし単に弔うのと祀り上げるのには違いがある。
単に弔った場合、例えば死後百年経ったときに「そぎゃん人が昔おったとですよ」ということになる。
知らない人には凄さが全然伝わらない。
一方、神として祭られた場合。
「こんお人はなー、すごかお人だったモンだけん今も神様として祀られていらっしゃっとですよ」ということになる。
ラオウをよく知らない人にも何となく凄さは伝わってきます。
有難味もあります。
なにせ神です。
野球選手だって祀り上げられるこのご時世です。
漫画の登場人物とはいえ拳王こそ祀られるにふさわしいと思いませんか。羅王廟とかいって。

死んだ後まで畏れ敬われ続けるのは天をゆく者だ
(『蒼天航路』最終話より)

書いてるうちに論点が横滑りしていった気がしますが、もうラオウって打つのも飽きてきたので修正しない。
そして何よりラオウを冒涜しているのは『北斗の拳』読んでてラオウが出るたびに「馬でかすぎだろ! 」とか笑い転げていた私でありましょう。
ちなみにラオウの実兄カイオウの見開きページ「悪! 」にも大笑いした。