二十年以上前、Fさんが中学生のときのことだという。
美術の授業で水彩画を描く課題が出た。最近の印象的な出来事、というテーマで作品を描いて提出せよということだった。
Fさんは少し考えてから、数週間前に同じクラスで起きた事件を題材に選んだ。
事件というのは教室の掃除中、二人の女子生徒がふざけて踊った拍子に傍らの花瓶を倒してしまい、周囲が水浸しになってしまったというものだった。
大した事件というわけでもないのだが、花瓶が倒れたその時ちょうどFさんはすぐ傍にいて、こぼれた水が脚に盛大に跳ね、靴下がびしょ濡れになった。
花瓶を倒した女子生徒二人からFさんに対して特に詫びもなく、とはいえ後から文句を言うのも格好悪く思えて、ぼんやりとした不満を抱えたまま過ごしていた。
絵の題材に選んだのは、軽い意趣返しくらいのつもりだった。
画用紙の中央で踊る女子生徒たち、その脇で倒れる花瓶と飛沫を上げて溢れる水。鉛筆で下描きをして、絵の具で色を着けていった。
美術の時間内では描き終わらなかったので、続きはまた後で描くことにして、とりあえず描きかけの画用紙は教室の後ろのロッカーに入れた。
二日ほど経った放課後、続きを描こうとしてロッカーから絵を取り出したFさんは仰天した。
絵の表面が何箇所か、やすりでもかけたように毛羽立ち、絵の具が剥がれて下の紙が露出している。
ひと目見て理解した。ゴキブリにかじられたのだ。昼間でもたまにゴキブリが出ることがある。夜中ならもっと出てくるだろう。
教室のロッカーは扉などない単なる木製の棚だから、虫を防ぐことなどできない。そもそもFさんはゴキブリが絵の具をかじるなどとは思ってもみなかったので、防ごうともしなかったのだ。
かじられていたのは踊る女子生徒の顔と腕のあたりで、溜息をつきながらFさんは絵の具を塗り直し、まだ未完成だった部分も描き加えて、次の美術の時間に提出した。
それから幾日も過ぎないうちに、クラスメイトが二人、部活動中に相次いで大怪我をした。
ひとりは顔面骨折、もうひとりは腕を複雑骨折して救急車で搬送されていったという。
Fさんはその事実を翌日になってから知ったが、ある事実に気づいて愕然とした。
怪我をした二人というのは例の花瓶を倒した女子生徒たちだった。
そして怪我をした箇所というのが。
Fさんが描いた絵の中で、虫にかじられていた部分とぴったり同じだった。
もちろん、単なる偶然ですけどね。
Fさんはそう語って、曖昧に微笑んだ。