Cさんが大学生のとき、友人がこんなことを言い出した。あの潰れたホテル、入れるんだって。ちょっと行ってみない?
そのホテルというのは市内にある観光ホテルのことで、その前年に不祥事で経営者が逃げ出し、廃業したという曰くがあった。
そんなところに何しに行くの、変な人がいたら危ないでしょとCさんは止めたが、明るいうちなら大丈夫でしょ、と友人に押し切られて結局行くことになった。
次の週末、Cさんと友人は午前中に件のホテルに向かった。川岸に建っていて、周囲にも民家が並んでいる。
人の目があるせいか、外観に大して荒れた様子はない。せいぜい雑草が伸びている程度で、窓は割れていないし落書きもない。
正面玄関にはロープが張られていたが、友人が聞いた話だと裏の搬入口は施錠されていないという。
不法侵入である自覚はあったので、人に見られていないかビクビクしながら裏に回ると、友人の言った通り搬入口らしき扉は難なく開いた。
中は明かりがないので昼間でも薄暗い。ただ、外と同様に中も荒れたようなところはさほどなかった。せいぜい埃っぽいくらいのものだ。
物が大して残っていない館内を十分ほどうろついたが、友人が引き戸をひとつ開けたところで二人の足が止まった。
なにこれ、という声がどちらともなく漏れた。
引き戸の向こう、給湯室らしき部屋の床に段ボールが大きく広げられている。そこに線が描かれている。絵だ。
等身大に描かれた女性の絵である。緑色のクレヨンを使って稚拙な線で描かれてはいるが、体型からどうやら裸の女を描いていることは察せられる。
そしてその女には首がなかった。首が描かれずに両肩がなだらかに線でつながっている。
外で見れば単に下手な絵としか思わなかったかもしれないが、静まり返った空きビルの一室で見ると体の芯に染み込むような不気味さがある。眺めているうちにすっかり気分が悪くなってしまい、二人はすぐそこを出た。
帰宅してからもその日はずっと気分が沈み、みぞおちのあたりが重く感じられて仕方がなかった。
それから十五年ほど後のことである。Cさんは大学を卒業、就職、結婚、長女を出産して、長女は三歳になっていた。
ある日、自宅で段ボール箱が溜まってきたので、資源ごみの回収に出そうとCさんは箱を潰して紐で括ろうとした。
ところが紐が見当たらないので探しているうちに、広げておいた段ボールに長女が悪戯を始めていた。
Cさんが気付いたときには長女は床に広げた段ボールに四つん這いになっていて、這い回りながら何かを熱心に描いていた。
ほら、それに描いちゃだめでしょ、と笑いながらその絵に視線を落としたCさんははっとして息を呑んだ。
娘が緑色のクレヨンで描いていたのは、裸の女らしき絵である。
そしてその女には首がなかった。首が描かれずに両肩がなだらかに線でつながっている。
あのとき見たものと酷似していた。
なに描いたの、と娘に尋ねてみたものの、三歳児の説明は全く要領を得なかった。