割り箸

二十年ほど前、Fさんが高校生の頃の話だという。
Fさんの祖母が亡くなってから祖父の認知症が急に進んだ。家族を違う名前で呼んだり、食事の仕方が汚くなったりした。自分の持ちものがなくなったと言って家中すべての部屋を探し回ったこともあった。
祖母が亡くなったことが相当堪えてこんなことになってしまったのだろうかと、両親とFさんは嘆息しあった。そんな状態の祖父を日中にひとりで家に置いておくわけにもいかないので、母が仕事を減らして世話をしたり、父の姉である伯母が週の半分は泊りがけで世話をしに来たりした。
そんな状態が二年ほど続いたある朝のことである。
Fさんが起きて居間に行くと祖父が一人でじっと座っていた。おはようと声をかけたが返事がない。耳が遠くなったことと認知症が進んだことで、祖父に話しかけても返事がないことは珍しくなかった。
だからFさんも特に祖父と会話をするつもりもなく、すぐに顔を洗いに行くつもりだったのだが、このときは少し様子が違った。祖父がFさんの方を見て口を開いたのだ。
「今日はお祖母さんと出かけるからね」
祖父から祖母の話が出るのを久しぶりに聞いた気がした。それにしても祖母と出かけるなんて、もういないことを忘れてしまったのか。
そうなんだ、気をつけて行ってきてね。Fさんはそれだけ答えると洗面所へ向かった。顔を洗ってまた居間に戻ると祖父の姿はなかった。
台所に行くと母が朝食の支度をしていた。朝ご飯だからおじいさん呼んできて、と母は言う。
居間にいなかったけど、どこに行ったんだろうとFさんが言うと、母は今日はまだ見てないよ、布団じゃないのと言う。
もう居間で一度姿を見ているのだからまだ寝ているということはない。トイレのドアをノックすると父がいた。もしかして外に行ったのかと思ったが玄関には祖父のサンダルが揃っていた。
そうだとすると一度起きてからまた寝床に戻ったのだろうか。そう思って祖父が寝起きしている仏間を覗いた。そしてその光景に息を呑んだ。
八畳間に敷いた布団に祖父が横になっている。そしてなぜかその周囲に、細長いものが散らばっている。
何十本もの割り箸が布団の周りに散乱しているのだ。
どういうことなの、おじいさんがやったの、と混乱しながらもFさんは祖父をとりあえず起こそうとした。
割り箸を避けながら布団に近づき、寝ている祖父に声をかけたが反応がない。
肩のあたりを軽く叩いてみても同じだ。目を覚まさない。
呼吸はしているが、半開きになった口から漏れる息はどうにも不規則で、今にも途切れそうなくらい細く感じられた。
これはまずい――のではないか。
仏間を飛び出したFさんは両親に事態を告げ、父は救急車を呼んだ。
祖父は脈がかなり弱まっていた。そして意識が戻らないまま、三日後に病院で息を引き取った。


それから一週間ほどは葬儀や親戚とのやりとりやらで両親は忙しく動いていて、Fさんも両親の代わりに家事をして慌ただしく過ごしていたのだが、落ち着いてから思い返してみると腑に落ちないことがいくつもあった。
まずどうして祖父は寝床の周りに割り箸をばらまいていたのか。やったところを誰も見ていないから祖父がばらまいた証拠があるわけではないが、祖父が遺した財布から割り箸を購入したスーパーのレシートが出てきたから、少なくとも用意したのは祖父自身だ。
あの朝に祖父が言っていたことも気になる。祖母と出かけるというのはどういう意味だったのか。もしかしたら、祖母が向こうから迎えに来ることを示していたのではなかったか。
これらは言ってしまえば認知症で説明がつくことではあるのだが、もうひとつどうにも納得いかないことがあった。母はあの朝、Fさんが仏間に向かうまで祖父の姿を一度も見ていなかったという。Fさんも洗面所で顔を洗っている間、祖父が居間から仏間に戻ったのを知らなかった。
仏間から居間まで、洗面所と台所の前を通らなければ行き来できない。Fさんと母が台所と洗面所にいる状況で、二人に気づかれることなく祖父はどうやって居間と仏間を移動したのだろうか。
もう全部確かめようもないんだけどね、それにしてもあの割り箸はすごかったのよ、畳じゅうが割り箸だらけでさ。Fさんは苦笑いを浮かべてそう語った。