朝風呂

二十年ほど前の二月、Cさんが妻と新潟旅行に出かけた。
泊まったホテルには温泉があり、朝は五時から入浴できるという。Cさんはとりわけ風呂が好きなほうでもないのだが、ちょうど五時頃に目が覚めたので、せっかくだから朝風呂を楽しむことにした。
妻はまだ寝ているというので一人で部屋を出て、まだ誰もいない廊下を大浴場まで歩いていった。
浴槽の中にも誰もおらず、貸し切り状態の中でCさんは伸び伸びとお湯に浸かった。まだ窓の外は暗いので風景を楽しむことはできないが、湯口からお湯の出る音だけが響く静かな浴場でじっと温まるのは心地よかった。
するとそこへ突然、浴場内のサウナのガラス戸が開いて中から一人出てきた。猫背で頭の禿げ上がった老人で、水風呂から桶で冷水を汲むと慣れた様子で肩からそれを一気に浴びて、それからタオルで水気を落として脱衣場へと出ていった。
Cさんは自分が一番乗りだと思っていたが、先にあの老人が入っていたようだ。それにしてもあの歳で早朝からサウナとは大したものだと驚きながら、Cさんはそのままお湯の中でじっとしていた。
すると数分した頃、またサウナのドアが開いた。もう一人入っていたのか。
ところが中から出てきた姿を見てCさんは目を疑った。先ほどの老人だったからだ。
そこからの行動も先程と全く同じだった。水風呂から汲んだ水を肩から浴びて、体を拭いて出ていく。
双子だろうか。そうだとしても行動までそっくり同じということがあるのか。
呆気にとられながらそのままお湯に入っていたCさんだったが、そうしている間にまたサウナの扉が開いたのでギクッとして視線を向けた。
同じ老人が出てきて、先程の二回と全く同じ行動を取って脱衣場へと出ていった。
これはいくらなんでもおかしいのではないか。サウナにそっくりな老人が何人も入っていたのではなく、同じ老人が繰り返し出てきているのではないか。
そんな考えが頭をかすめた。
もうのんびり湯に浸かっている気になどなれなかった。慌てて浴槽から出ると、大雑把に体を拭いて脱衣場へと出ていった。
脱衣場には誰の姿もなかった。
ロッカーもCさんが使っているもの以外鍵が刺さっている。脱いであるスリッパもCさんのものだけだ。
そうだ。脱衣場に来たときもそうだったのだ。貸し切り状態だと思ったのはそのせいだったのだ。
あの老人はCさんより先に来ていたわけではなかったはずだ。彼がサウナに入った姿は見ていない。
それなのに、サウナから出ていく姿だけが繰り返されるのはどういうことだ。
そのまま脱衣場でぼやぼやしていては、またサウナから出てきた老人が脱衣場に入ってくるのではないか。
Cさんは慌てて身支度をすると、脱衣場を飛び出して誰もいない廊下を部屋まで早足で戻った。
部屋に入ると妻はもう起きていて、布団の上でテレビを見ていたが、Cさんの姿を見ると怪訝な顔をした。そして視線を上下させる。
それから妻は急に鋭い声で叫んだ。誰よあんた!
あまりの剣幕にCさんは面食らったが、妻は立ち上がるとCさんに詰め寄り、後ろに回り込んで片手でCさんの背中を何度も払った。
それから辺りを見回すような仕草をして、ようやく落ち着いたようでまた布団の上にへたり込んだ。
急になんだよ、とCさんが問いただすと、妻は怪訝な顔で言った。あなた、お風呂で変なもの見なかった?
Cさんはぎくりとして聞き返した。変なものって、どうして。
今、部屋に入ってきたあなたの肩のむこうに知らないおじいさんの顔が見えたんだ。横顔だったけど、にやにや笑っててさ。
でも、顔しか見えなくて、首から下が見えないの。だからあなたの後ろに回ってみたら、顔もすっと引っ込んで見えなくなって。
お風呂から帰ってきたところだし、変なものがついてきたんじゃないかと思ったの。