埼玉に住むTさんが郷里の福島に帰ったときのこと。
久々に会った友人の家で一緒に酒を飲み、そのまま泊まることになって一階の仏間に布団を敷いてもらった。
真夜中に尿意を覚えて目が覚めた。
暗い中トイレに行き、用を足して出てきたところでおや? と気がついた。
なんだか甘い匂いがする。
桃だ。熟れた桃の匂いが家の中に漂っている。
トイレに向かうときには気づかなかったが、用を足している間に急に匂いが立ち込めたのだろうか。
それにしてもどうしてこんなに桃の匂いがするのだろう。寝る前までは全く感じなかった。
家中は寝静まっていて、外の葉擦れの音くらいしか聞こえない。誰かが桃を食べているというわけでもなさそうだ。
しかし誰かが桃を剥いて食べているという程度の匂いではなく、あたり一面に桃を撒き散らしたかのような匂いの強さだ。桃の倉庫かと思うほどである。
しかし嫌な匂いにではない。酒がまだ残っているのか、妙に浮かれた気持ちになって布団に戻った。
桃の匂いと外から聞こえるさらさらという葉擦れの音に包まれて、なんだか桃林に寝ているような気分だと思いながら眠った。
翌朝目を覚ますと桃の匂いはすっかり消え失せていた。
友人にそのことを話すと、軽く頷きながらこんなことを言う。

 

このへん、けっこう昔だけど桃作ってたらしいからな。直接見たことはないけど一面桃畑だったって聞いたことあるわ。

 

そう言われてからはたと気付いた。この家の周りは住宅で、葉擦れの音が聞こえるほど木がない。匂いばかりに気を取られていたが、思い返せばあの音も不可解だ。
友人の家を出る時に周囲を見回したが、桃畑だったという面影はどこにもなかった。