腐し婆

三十年ほど前、栃木のある村でのことだという。
村で農家を営んでいたNさんが、ある日知人の畑を手伝って帰宅する途中でのこと。
田畑の中のあぜ道を歩いていると、前から誰かがやってくる。
腰の曲がった小柄な老婆だが、その割には健脚なのか、早足くらいの速さでずんずんこっちに近づいてくる。
しかし知らない顔だった。狭い村のことでどこの家にどんな住人がいるかはお互い知っているが、その老婆には心当たりがない。
しわだらけの口を横一文字に結んで目尻もキッと釣り上がり、怒ったような顔をしている。
誰かを訪ねて他所から来たのだろうかと思いながら会釈したが、老婆はそれには反応を見せない。
すれ違う直前になってNさんはあることに気がついた。老婆は早足で歩いているのだと思っていたが、近くで見ると脚が全く動いていない。
腰を曲げて両手を前で握った姿勢のまま、音もなく滑るように移動している。
見間違いかと思い、すれ違った後に振り向いてもう一度老婆の動きを見ると、やはり手足を動かさずに移動している。
老婆はそのまま山の斜面を覆う藪の中に突入して見えなくなった。
変なものを見てしまった、と仰天したNさんは足早に帰宅したが、そこでもう一度驚いた。
Nさんは手伝いの礼として貰った野菜を、ビニール袋に入れて持ち帰った。

帰宅して袋の中を覗くと、つい先程は新鮮だった野菜が、どういうわけか全てズルズルに腐ってしまっていた。

 

現在はもう農家を廃業して千葉で暮らすNさんだが、その時の老婆の顔と動きは忘れられないという。