浮く大家

Nさんが学生時代に住んでいた学生向けアパートは寿司屋に隣接しており、大家もその寿司屋の店主だった。
入居してから聞かされたことだが、このアパートは“出る”と学生の間でも評判の物件とのことで、実際Nさんも何度か納得いかない体験をした。
誰もいない隣室からしきりに踊るように足踏みする音が聞こえたり。
廊下をTシャツだけがぼとぼと音を立てて通り過ぎていくのを見たり。
共同の洗面所の鏡を見ても顔だけがぼんやりしてよく映らなかったり。


中でも印象的だったのが、大家が浮いていた件だ。
その夜、大学から帰ったNさんが二階の自室に向かって階段を上がっていくと、上が騒がしい。
二階の廊下には他の住人の学生たちが口々に何か言いながら、窓から外を見ている。
何かあったの、と彼らの後ろから窓の外を見ると、外に誰かがいるのが見えた。
白い服を着ている。料理人のようだ。
顔にも見覚えがある。大家のおじさんだ。寿司屋の店主の。
大家は、二階の窓の外を無言で行ったり来たりしている。
二階の窓の外に、足場になるようなものはない。大家は暗い空中に浮かんで音もなく動いているのだ。
何だこれ? 何してんのあれ?
隣に立つ学生にそう尋ねたが、いや見たまんまだろ飛んでるんだよあのおっさん、という返事だった。
何人かが空中の大家に呼びかけたが、大家は聞こえていないのか無視しているのか、何の反応も見せずにただ空中を往復している。
誰かがこんなことを言いだした。あれ本人なのかな。
そこでNさんを含めた三人ほどが隣の寿司屋を覗きに行ったが、大家は店内のカウンターに立っている。
浮いているほうは別人なのか。じゃあ誰なんだあれ。
また二階に戻ると、もう窓の外に大家の姿はなかった。聞けばつい数秒前に消えたということだった。
消える瞬間を見逃したのはなんとなく残念だったな、とNさんは笑って語った。