Tさんは毎朝のジョギングが日課で、近くの堤防の上が通行人も少なく、車も気にしなくて済むためお気に入りのルートだった。
しかしこの堤防を走っていると途中で決まって耳鳴りがすることに気が付いたという。
ほんの数秒間だけなのだが、同じあたりを通り過ぎる時に必ずと言っていいほど耳鳴りがするのである。
走っていても歩いていてもそれは変わらなかった。耳鳴りが始まってから立ち止まってみてもすぐに治まる。
近くの何かの施設から耳鳴りの原因になる高周波か何かが出てるんだろうか、とも思ったものの、付近は民家と畑くらいしかないのでそれも考えにくい。
しかし気にしなければ済むくらいの弱い耳鳴りだし、車道より堤防の上の方が走りやすいので、Tさんは特に構わずにそのルートを毎日走っていた。
春先の、朝から妙に暖かい日だった。
いつものように堤防に上がったTさんだったが、その日はいつもより辺りが生臭く感じられたという。
釣り人が捨てた魚がどこかで腐ってるんだろうか……と顔をしかめながら走っていると、いつもの耳鳴りの場所にさしかかった。
当たり前のように耳鳴りが始まる。
もう慣れっこなので気にせず走り続けたTさんだが、なぜかその日は数秒どころか数分経っても耳鳴りが止まない。
今日は長いな、と思いながらも走り続け、ついに堤防を下りるところまで来てしまったがまだ耳鳴りは続いている。
蚊が鳴くほどの弱い耳鳴りなので走る上で支障は全くないものの、いつもより長いのでだんだん心配になってきた。
一体今日はどうしたんだろう、と思いながら幾分脚を早めて走るうち、自宅まで戻ってきた。
玄関前でストレッチをしてから鍵を開けて入ったが、まだ耳鳴りは残っている。
靴を脱いでから玄関の壁に掛けてある鏡を何気なく横目で見たTさんは、そこにおかしなものを見た気がして視線を戻した。
鏡の中では誰かの両手がTさんの両耳を塞いでいる。頭上から伸びた腕がTさんの頭を両側から挟むようにして。
うわっ!
耳の周りで腕を振り回しながら弾かれるように真上を見たTさんだが、そんな腕はどこにもない。
改めて鏡を覗くと耳を塞ぐ腕など映っていない。
気がつくと耳鳴りはもう止んでいた。
それ以来、ジョギングで堤防の上を通るのはやめたという。