十年ほど前の話だという。
用事で東京を訪れたある人が、少し時間ができたということでせっかくだから観光しよう、と思い立った。
今まで行ったことのない所に行こう、と考えた彼は、行き先に東京タワーを選んだ。
有名な観光地だが、彼はそれまで一度も行ったことがなかったのだ。
地下鉄で最寄りの駅まで行き、歩いて東京タワーに向かった。冬のことで日が短く、もう暗くなりかけていた時刻だった。
展望台まで行って夜景を見てから帰ろうと考えていたが、一階に足を踏み入れて数分もしないうちに何やら胃のあたりがキリキリと痛みだした。
おかしいな、悪いものでも食べたか?とその日の食事を思い返したが、何が原因なのか見当がつかない。
しかしとにかくお腹が酷く痛む。展望台でのんびり遠くを見ていられる状態でもなさそうなので、訪れたばかりではあるが早々に立ち去ることにした。
他の観光客に交じって外に出た彼はゆっくり息をしながら足を動かしたが、だんだん呼吸までも苦しくなってきた。
たまらず、タワーから出て十メートルも行かないうちに俯いて立ち止まってしまった。
これはもしかすると大変な病気なんじゃないだろうか、救急車を呼ぶか……?
不安が頭をよぎったところで、すっと彼の前に誰かが現れた。
苦痛にゆがむ顔で見上げると、何とそこにいたのは日本髪を結った女性である。
豪華な刺繍の入った打掛を着て、髪には飾りのついたかんざしを挿し、白粉を塗った顔に真っ赤な口紅が鮮やかだった。
彼に対して真横を向いてじっと立っている。
お、花魁……?
突然そんな華やかな人物が目の前に立って面食らった彼だったが、腹痛でそれどころではない。
苦しさのあまり再び視線を落とすと、なぜかそこには自分の足とアスファルトしかなかった。
あれ?ともう一度視線を上げるとたった今いたはずの女性が影も形もない。
消えた……。
呆然とする彼の鼻にぷうんと白粉の匂いが届き、はっと気が付くとたった今まで苦しんでいたはずの腹痛までもが嘘のように消えていたのだという。