居酒屋のトイレ

学生時代に居酒屋でアルバイトをしていた人の話。
開店前にトイレ掃除をしようと男子トイレに入った。
その店の男子トイレは小便器がひとつと個室がひとつ向かい合わせになっており、まず小便器の方から片付けようとした。
すると背後で個室のドアが開く音がして、中から和服姿のおじいさんが出てきた。
そしてそのまま手も洗わずにトイレから出て行く。
水を流した音もしなかったし、実際用を足した形跡もなかったのでただ個室に入っていただけのようだった。
開店前のトイレに入っていたのだから店の関係者なのだろうが、それまで見たことがない顔だったので誰なのかわからない。
とっさのことだったから挨拶もできなかったなあ、と思いながらひと通りトイレ掃除を済ませ、調理場にいる店長に報告した。
ついでに先ほどのおじいさんのことについても聞いてみたところ、店長は「ああ、なんでもないから気にしないで」としか言わない。
店内にもあのおじいさんの姿はないので、結局どういう人なのかよくわからない。
首をかしげながら開店準備を進めていると、近くで作業をしていたアルバイトの先輩が話しかけてきた。
「トイレのじいさん、見たんだって?」
はあ、と頷くと先輩は笑って言った。
「俺もここのバイト入った頃に見た。まあ、一度見たらもう出ないから安心していいよ」
それを聞いて初めて、あれが生身の人間ではなかったのではないかと思い至った。
先輩の話では、あのおじいさんはたまに店員の前に姿を現すが、特に何をするわけでもなく、また一度見た人の前には二度と出てこないらしい。


その後二年間ほどその店で働いていたが、先輩の言う通り二度とそのおじいさんを見ることはなかった。
しかし知らないおじいさんをトイレで見た、と後輩のアルバイトが言っているのは何度か聞くことがあった。
特に実害はないため、店員は誰もそのおじいさんのことを気にしていなかったという。