自宅で書道教室を開いている女性の話。
土曜日の午後、いつものように数人の生徒を相手に指導をしていると後から部屋に入ってきた男性がいた。
しばらく休んでいた生徒だったので、あら久しぶりじゃない、と先生は声をかけて席につかせた。
男性はすぐに硯に墨をすり、筆をとって先生の渡したお手本を写そうとした。
しかし筆を持った姿勢でじっとしたまま、真剣な表情をしている。
先生が促しても筆先を半紙に落とそうとはしない。
数分後、彼は首を横に振りながら筆を置いた。やはり一文字も書けていない。
どうしたの?と先生が聞くと、彼はため息をついて答えた。
「やっぱり駄目です、どうしても書けません」
そう言って深々と頭を下げ、そのままふっと彼の姿は消えた。
仰天したのは先生である。
他の生徒たちを振り返って、今、今人が消えたわよね!何よ今の!?とまくしたてた。
しかし生徒たちはむしろ先生の方を気味悪そうに見ながら言う。


「あの、先生、さっきは誰と話していらっしゃったんですか?」


他の生徒たちからは、後から入ってきた男性の姿など全く見えていなかったのだという。
指導中に突然先生が立ち上がり、誰もいない席の方に話しかけ始めた。
すると、机の上でひとりでに筆が立ち上がり、数分間空中に立ったまま止まって、また机に落ちた。
それからすぐに先生が血相を変えて騒ぎ出したというのだ。


そんな事を言われても、先生からすれば生徒たちに男性の姿が見えていなかった事が不思議だった。
それくらいはっきりと間近でその顔形を見ていて、幻や幽霊といった感じは全くなかった。
あれは確かにここの生徒の……と彼の名前を思い出そうとしたものの、これがなかなか出てこない。
あれ、おかしいな、と思い返すとあれほど近くで見たはずの男性の顔がほとんど思い出せなくなっていた。
そもそも、顔も名前も思い出せないあの男性を、なぜ最初から自分の生徒だと疑いもしなかったのか。
そこに思い至って初めて先生はぞっとした。自分は一体誰と話をしていたのだろう。
全くその正体には見当がつかなかったが、確かに誰かがそこにいたことを示すかのように、机の上に置かれた筆には黒ぐろと墨がついていたという。