名古屋に出張したHさんが無事仕事を終えて、駅に向かうためにタクシーに乗った。
運転手は四十代くらいの気さくな人物で、乗って早々に世間話が始まった。
Hさんは日頃からあちこち出張が多く、行く先々で変わった話などを聞くのが好きだった。
この時もHさんは何か変わった話はないかと運転手に尋ねた。
「変わった話……そうですねえ……まあ、仕事柄、色んな人から面白い話、聞きますけど……」
と、運転手は少し思い返す様子だったが、ふと、大きく頷いて言った。
「ああ、そう言えば!最近、変なことがありまして」
「どんなことですか?」
「それがですね、今の今まで忘れてたんですけど……」
そう運転手が言いかけた時である。
ドン、と二人の頭上でタクシーの屋根が音を立てた。
何か重そうなものが落ちて当たったか、あるいは勢いよく叩かれたかのような、そんな音だった。
しかし車は大通りの真ん中寄りの車線を走行中である。誰かに叩かれたりするはずがない。
「鳥か何かですかね?」
Hさんがそう言うと運転手も頷いて、ごくたまにですけどそういうこともあります、と言う。
「それで何の話でしたか……ああそう、それでね、つい二週間ほど前のことで……」
また運転手が話し始めた時。
ドン。
再び屋根が鳴った。
運転手は視線をちらりと上にやり、屋根傷ついてないだろうな、と不快そうに言った。
それから改めて、二週間前なんですけどね、と話を続けようとした。
すると、二人の眼の前のフロントガラスに、白くて細長い棒のようなものが急に張り付いた。
それはまるでワイパーのように、ボンネットのあたりを支点にして左右に往復運動を繰り返した。
しかしワイパーよりもっと太いそれは、先が細く五本に分かれている。
真っ白い、人間の腕だ。
腕がフロントガラスの下からにゅっと生えて、左右に振られている。
まるでさよならを言っているか、あるいは駄目だと言っているような動きだ。
腕はフロントガラスの上を何往復かすると、突然きゅっと絞りこむかのように細くなって消えた。
あまりのことにHさんも運転手もしばし唖然としていたが、やがて運転手がぽつりと言った。
「すみませんけど、話さないほうがいいみたいです……二週間前のこと」
Hさんは言葉もなく頷き、その後は駅に着くまで二人とも無言だったという。