奥ノ郷鎮守社縁起(前半)

 飛騨の、飢えた獣の脊椎のごとき急峻な山嶺を幾つも重ねたその向こう、水晶・鷲羽を西に見上げるあたりに、人呼んで奥、あるいは奥ノ郷なる集落が存在する。現在では自治体として独立しておらず行政区分上は山ふたつ隔てた町の一部として吸収されているが、その名の通り人も寄り付かぬ深山に位置するため、かつては知る人もない隠れ里であった。流石に現在では集落まで一本の県道が通じており、曲がりくねった山道を厭わなければ車で訪れることも難しくないが、針葉樹に覆われ縮緬の襞のごとく複雑に入り組んだ山肌が半里先の見通しすら許さず、道を狭めて近代に至るまで余人の往来を頑なに拒んでいたのである。
 そのため村に人が住み着いて以来は他の地域との交流とて年に片手で数えるほども無かったようで、飛騨国内でも奥ノ郷の存在を知る人は稀であり、年中山で暮らす炭焼たちですらその名を聞いたことはあってもお伽話か何かだと思っているほどであった。
 それほど世と隔絶した村であったから、他村との区別をする必要性がないために奥ノ郷の住人自身は自分たちの住む村に名を付けてさえいなかったという。だから奥ノ郷というのは元来他称であり、集落の名として正式に採用されたのは人の往来が増えた近代以降のことである。
 鳥の他には通う者のないようなこの土地にいつ頃から、何ゆえ人が住み着いたのかといえば、これがまた明確なことはわからない。他村の伝承では平家の落人であるとか応仁の戦火を逃れた者の集落が山向こうに存在するとか謂われてきたが、それが奥ノ郷のことなのか定かではないし、そもそも当の奥ノ郷では村の起源については一切伝えられていないのである。少なくとも室町後期の文献に飛騨ノ奥村の名が僅かに窺い知れるが、これが奥ノ郷を指しているのかどうかもはっきりしない。存在すらほとんど知られていなかった村であるからこれは当然かもしれない。
 奥ノ郷は過酷な地にある。冬には日本海より吹き上がる強風が運んできた重い雪が一晩で屋根を越し、夏は夏で山の乾いた空気と寒冷な気候が作物の生育を厳しく阻む。水源とて村近くの狭い沼の他には溝と呼ぶしかないような小さな川が二、三筋申し訳程度に流れているのみ。春も終わり頃になれば大量の雪解け水が僅かな間だけ水不足を解消してはくれるが、その代わり鉄砲水や崖崩れを頻繁に齎(もたら)す。作物といえば稲は寒風に吹かれて育つはずもなく、他所との交流もなかったために交易品も頼れない。村人たちは斜面に造られた僅かばかりの段々畑で麦、稗、粟などを細々と栽培し、それでも足りぬ分は山に分け入って山菜などをかき集めてくることで飢えを凌いでいた。奥ノ郷はかように暮らし難い風土にあり、何人といえど好き好んで住処に選ぶような場所ではないのである。なぜそんな土地に集落ができたのかについては数々の郷土史家が疑問を抱いてきたところではあるが、いかなる理由にせよ、村の開祖たちは自ら進んでそんな土地を選んだものではなく、已むに已まれぬ事情によってそうせざるをえなかったのに違いないというのが大方に共通する意見である。先述の平家の落人や応仁の難民との言い伝えもあながち出鱈目とも言い切れない。
 現在の奥ノ郷の入り口はかつての村のそれとは位置が異なる。新道ができた時に繋げやすいところに道を繋げたからそうなったもので、それまでは現在県道が通っている所から崖をひとつ上がったところに杣道というよりは獣道のごとき細道が通じていた。こちらの道は今となってはもう全く使われることはなくなって、ほとんど藪に覆われてしまっているが、流石に位置が高いだけあって、今の道より眺めが良く奥ノ郷を一望できる。そこから村を望めば左右にほとんど切り立ったような急斜面がのしかかり、その押しつぶされそうな間に間に数えて百二十数戸の家が軒を列ねている。もっともこの数は現在のもので、明治の頃まではこの五分の一ほどしか世帯が存在しなかったという。そうした古くからの住民であった二十数戸は今となってはその半分ほどしか残っていないが、彼らの家は現在の集落の東側に集中しており、かつてはその辺りが村の中心地であったに違いない。この東側の斜面を少し上がったところに古い社が建っている。これは村の鎮守で、江戸時代に建てられたものであるという。
 集落から視線を上に移せば、正面に見える山を村では御前山と呼び、そこから更に東にひとつ谷を挟んだところにある山をオンボロ山といった。オンボロ山とはまた随分な名前だが、郷土史家の増田宗之氏によればオンボロというのは隠亡(おんぼう)の転訛ではあるまいか、という。
 このオンボロ山、あるいは隠亡山にはかつて人を喰う化け物が棲み着き、奥ノ郷に犠牲を要求していた、と奥ノ郷の伝承にある。これがいかなる怪物なのかというと、そこは今ひとつ具体的な情報に乏しい。あるときは村の若者が全身剛毛に覆われた身の丈二丈ほどの巨大な人影を山中で目撃したといい、またあるときは頭部にびっしりと緑色の苔を纏わりつかせた猪が他の獣を従わせていたともいう。これらの話がどこまで真実を語っているかとなるとかなり疑わしいのは否めぬし、そうした化け物の実在を証明するものでは勿論ないが、少なくとも奥ノ郷においては、そうした得体の知れないモノがオンボロ山に潜んでいるという恐れが長年住民たちを支配し続けていたということである。村ができたのがいつのことなのか明確ではないが、化け物はすでにその時にはオンボロ山に巣くっており、村人に毎年四人の犠牲(いけにえ)を差し出すよう求めてきたという。
 犠牲を差し出さねば村には恐ろしき苦しみが訪れるであろう――というのが化け物の脅しであり、村人はこれを恐れ、言いなりとなった。先述の過酷な風土に加えて人を喰う化け物までいるようでは、もはや人の住む世界ではなく地獄か何かとしか言いようがないが、それでも彼らがそこを離れようとしなかった辺り、よほど他に行く宛がなかったのであろうか。
 そうして村では毎年化け物に対して四人の犠牲を差し出してきた。四人ならば誰でも良いという訳ではない。化け物の方から指定があり、年老いた者をふたり、その年生まれた子供をふたりよこせという。大抵民話では化け物への供物といえば若い娘と相場が決まっているが、老人と赤子とは珍しい。
 犠牲を差し出すのは立秋のことと決まっており、条件に沿った者の中からくじ引きで該当者が決められた。そして選ばれたふたりの老人が赤子を胸に抱き、オンボロ山への道を歩んでゆく。熊よけの目的もあって、他の村人たちも途中までは鳴り物を手に四人を送ってゆくのが通例だったが、オンボロ山の下の谷までやってくるとそこからは犠牲たちだけに行かせ、一同押し黙ってを見送るばかりであった。赤子を抱いた老人の背が山道に消えてゆくのを、村人たちはいかなる感情を抱いて見送っていただろうか。むざむざ犠牲を差し出すことへの無力感だろうか。あるいは村の危機を回避することへの安堵と犠牲への感謝であっただろうか。しかし見送っている村人自身も、いずれ年老いた折には見送られる側に立つかもしれない。あるいは次の年には生まれたばかりの自らの子が、孫がオンボロ山へ送られるかもわからぬのである。
 ともあれ、化け物の要求に従ったそのためか、村には大きな災いというものは永らく訪れることなく、世の趨勢〈すうせい〉がどう移り変わろうと奥ノ郷の暮らしは百年一日のごとく、過酷ではあるものの生きてゆけぬこともない日々が淡々と続いたようである。


 江戸初期のことだという。訪れる者のついぞ途絶えていた奥ノ郷に、谷に湧いた陽炎が凝集したかのごとき印象を抱かせるような黒いふたつの人影が現れた。黒い法衣に白っぽく塵垢を滲ませた二人は旅の雲水で、諸国を巡る修行の途次、飛騨の住人よりたまさか奥ノ郷の噂を聞きつけ、幻の村とやらに興味を覚えて一路山脈に分け入り、彷徨の末にやっと辿りついたものらしい。(続く)