煙草

三十年ほど前の話だという。
Tさんという男性が転居した。
結婚したばかりで、奥さんとお互いの職場に通いやすい街に住もうということに決めたのである。
引っ越してすぐ、近所を夫婦で散策していた時のこと。
買い物をするにはどこの店がよさそうだとか、近くにどんな施設があるのかだとか色々見回っていると、道端で一台の車が近寄ってきた。
車は白いスカイラインで、歩道にいるTさんのすぐ横で停まった。
「すいません、○○駅まではどうやって行けばいいんですかね?」
開いた窓越しにそう尋ねてきたのは運転席の若い男で、助手席には同じ位の年頃の女性も座っていた。
Tさんは覚えたばかりの道を教えてやったが、その時Tさんの袖がグイッと後ろに引っ張られた。
振り向くと、奥さんが固い表情をして袖を握りしめている。
何やらご機嫌斜めのようだったが、原因がよく判らないのでとりあえず道案内の方を優先することにした。
すぐに車の方に向き直ると、お終いまで説明したところで運転手の男がばつの悪そうな顔をして言った。
「あの、すみませんが煙草、持ってたら何本か譲ってもらえませんか?」
たまたまポケットに半分ほど吸った箱が入っていたので、Tさんはそれをそっくりあげてしまうことにした。
代金を払うという男に向かって気前よく手を振って、それからまたTさんは奥さんの方を向いた。
さっきからずっと袖を握りっ放しだった奥さんは少しの間無言で俯いていたが、ようやく顔を上げて言った。


「今、誰と話してたの?目の前に誰もいなかったのよ?」


いやだって今、車がいたじゃないか……と言おうとしてもう一度車道を見たTさんは、そこに落ちていたものを見た。
つい今しがた、車の男に渡したはずの煙草の箱だった。
何だこれ、どういうこと?
奥さんに尋ねると、青い顔をした奥さんから返ってきた説明はこうだった。
歩道を歩いていると、突然Tさんが何もない車道に向かって独り言を始めたのだという。
奥さんがびっくりして袖を引っ張ったものの、Tさんはそれに構わずにポケットから煙草を取り出し、道路にぽとりと落としたらしい。
煙草が道路に落ちていた所を見ると、奥さんの話も辻褄が合っているようにも思える。
しかしTさんも、確かに目の前に白いスカイラインを見ていた。
手を伸ばせば触れるような距離のことである。間違えようがない。
呆然と車道を眺めたTさんだったが、道の向かい側にある物に気がついて、何だか急に納得してしまったという。
向かい側に立っている電柱の根元あたりに、花束と缶ジュースが供えてあったのである。
Tさんは落ちている煙草を拾い上げると、道を渡って花束の脇に供えて、手を合わせた。