砂漠の人魚

果てしなく広がる砂の海。日中は灼熱の地獄となり、夜間は凍える寒さをもって生物の営みを拒む過酷な土地である。
水がなければ人も獣も草木も生きてはいけない。だから、点在しているオアシスが砂漠を渡る人々の中継地点となっている。
だがすべてのオアシスが行き交う人々に利用されているかというとそういう訳でもない。隊商の辿る経路からは遠回りになってしまう場所、時季によっては水が枯れてしまうものなどはあまり人が寄り付かなくなる。


砂漠の中のあるところに、やはり人が滅多に寄り付かないオアシスがあった。隊商の街道から外れているのは勿論のことだったが、それ以外にも人を遠ざける要因がここにはあった。
水を青々と湛えたこの湖のほとりにはナツメヤシが鬱蒼と生い茂り、ここにしかいない色鮮やかな小鳥なども生息している。そして、水の中には人魚が住んでいた。
この人魚こそ人を寄せ付けない最大の原因だった。
砂漠で迷った挙句にこの緑溢れるオアシスに迷い込んだ人間は、清涼な水を湛えた湖のほとりで一息ついて乾いた喉を潤す。人心地ついてゆるゆると周囲を見渡す。命からがら彷徨ってきた砂漠とは別天地とも言うべき、楽園のような景観。旅人は夢を見ているような心地になる。
すると、湖の水面の一部が不意に波立つ。
水の中から浮かんできたのは、流れるような黒髪と褐色の肌をあらわにした美女だった。オアシスの先客かと考える旅人だったが、続いて目にした光景にあっと息を呑む。対岸に泳ぎ着いて水辺に腰掛けた、その下半身は銀色にきらめく鱗に覆われていたのである。紛れもない人魚の姿だった。砂漠の人魚は強い日差しから身を守るために褐色の肌をしている。


人魚はしばし焦点の定まらぬ眼差しで宙を見つめていたが、やがて対岸の旅人に気がついて視線を向ける。黒曜石のような瞳がしげしげと旅人を見つめたあとで、彼女はにっこりと微笑みかける。まるで懐かしい知人に再会したような、人懐っこい笑みを投げかける。
その笑みを見た旅人は、吸い寄せられるように人魚へ向かって歩き出す。砂漠を何日も彷徨った人恋しさを差引いたとしても、なお人を惹きつけてやまないといった魅力的な微笑みだった。魔性と言ってもよい。
そうやってふらふらと近づいていった旅人の手を、人魚の濡れた指先が柔らかく握る。人魚は旅人と両手を繋ぎながら――水の中に踊りこむ。もがく旅人の身体に人魚のしなやかな両手が絡みつく。
やがて動かなくなった旅人を、人魚は再び岸に揚げる。旅人の弛緩した喉首を愛おしそうに撫でさすると、人魚はそこに尖った牙を突き立てる。まだ生暖かい血液が人魚の喉を潤す。
この人魚は人を喰うのである。旅人の血を粗方吸い尽くした人魚は、次に腹にかぶりつく。はらわたは痛みやすいのと栄養があるのとで、真っ先に喰らうのである。他の部分の肉は、その後数日かけてゆっくりと平らげる。
そうして、このオアシスに辿りついた不幸な旅人はそのほとんどが生きて帰ることがなかった。命からがら逃げ出した僅かな生き残りが伝えたお蔭で、人里にもこの人魚の話は僅かに知られていた。幸いにしてこのオアシスは交通網の上で重要な場所ではなかったから、進んでここを目指す者などいない。時たま、不幸な迷い人がここに行ってそのまま戻らないくらいであった。


時が過ぎて、いつしか砂漠の気候も変化する。雨が降る場所や量も変わる。オアシスの湧き水は、砂漠に降った雨が沁み出したものだ。雨の分布が変われば当然オアシスの水も影響を受ける。
人魚の住むオアシスでも、ある頃から湖の湧き水が目に見えて減ってきた。湧く量より乾く量が上回れば、湖は小さくなってゆく。何人もの人間を屠ってきたさしもの人魚も、物理現象には抗えない。日を追うごとに水は目減りし、湖岸のヤシ林も次第に疎らになっていった。雨季には僅かに緩和されるものの、いかんせん砂漠のことで元来雨が多いわけではないから、干上がるのも時間の問題だった。
そうして乾季のある日、すっかり干上がった泥の上で、人魚は息絶えようとしていた。湖の水はすっかり無くなっていて、横たわる人魚自信も随分乾いていた。かつて迷い込んできた旅人を魅了した黒い瞳はどんよりと濁り、いきいきと張り詰めていた肌は無残にひび割れ、豊かな黒髪は乾いた泥に塗れてすっかり固まってしまっていた。
横たわる人魚の周囲には、これまで喰ってきた人間の骨が散らばっている。喰ったあとの骨はみな湖底に沈めてきたので、水が乾いた今はそれが空気に晒されたのだ。
白骨に囲まれた人魚自身も、もうすぐ同様の姿になる。容赦なく照らす強い日差しと夜の酷寒が、彼女の水分を急激に奪い去っていった。




それからどれだけの時が経った頃か、やはり道を失った旅人がその地を訪れた。干上がったくぼ地の中央で、旅人は奇妙なものを見つける。
すっかり干乾びた、大きな魚のミイラ。並んだ鱗、そして鰭のついた尾。どう見ても魚類のそれである。しかしその上半身は二本の腕と丸い頭部を備えた、どう見ても人間か猿のものだった。
旅人は、そのおぞましい死骸を持ち帰ることにする。街に持ち込まれた人魚の干物は、紆余曲折を経たのち――。





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「こちらに奉納されました」
と、住職は締めくくった。
鳥取にある寺院に安置された人魚のミイラを見せてもらいに行ったときに、聞いた話である。