拡張献花

S市東通り交番で高嶺巡査が勤務中、若い男がふらりとやってきた。
男は、入って来た時からすでに様子がおかしかった。きょろきょろと視点は定まらず、足取りもおぼつかない。
高嶺は男が酔っているか、或いは薬物中毒ではないかとさえ疑った。
「お巡りさん……俺、どうしたらいいんでしょう」
「は?」
突拍子もない問いかけに高嶺は何とも応えようがない。
「事故が起きて、俺が、その」
事故という言葉で高嶺にも緊張が走る。とりあえず男を座らせて、詳しい話を聞くことにした。
男は市内に住む大学生で、斎藤と名乗った。
斎藤はまるで落ち着かない様子で、説明も切れ切れな上に話が前後して大層理解が難しかったのだが、大体以下のような話だった。


――斎藤はARに興味を持っており、昨年公開されたARアプリを携帯端末で多用していた。
端末のカメラを通した画像に、様々な情報のタグを付けてゆくのが楽しかった。他の人の付けたタグを見るのもいい。
一見大したことのない風景に、無限の情報を埋め込むことができる。そう考えるだけで、外出も魅力的になった。
そうして数ヶ月、拡張現実の世界に耽溺して――斎藤は何か変わったことがしてみたくなった。
ただ情報を発信したり受信したりするのでは高が知れている。何か、面白い使い方はないものだろうか。
しばらく考えていた斎藤に、ある考えが閃いた。
別に本当のことじゃなくてもいいじゃないか。
何気ない場所に、ちょっとした逸話を埋め込んでおく。
創作した話を、本当のような振りをして貼り付けておくのだ。
勿論、人に迷惑をかけるような嘘はいけない。
やりすぎて誰かに害があれば、自分が罪に問われる事もあるだろう。
だから誰も傷つけないような嘘、そして誰もが受け入れるような嘘をついてやろう。
斎藤が目を付けたのは、悲劇的な話だった。
映画や小説でも「泣ける話」ってのはいつだって人気がある。ここはひとつ、俺の作り話でみんなを泣かせてやろうじゃないか。
まず場所を選んだ。S市の中でも人通りが多い、東通り。人通りが多いところなら、より多くの人の目に留まる確率が高い。
設定する場所は、車の通りが多い交差点。見通しが良く、車はスピードを上げやすい。斎藤が考えた筋書きにぴったりの場所だった。
そして今から半年ほど前、斎藤は交差点の脇にこんな文章を貼り付けた。
「2003年10月、帰宅途中だった妹がここで車にひき逃げされ、それ以来ずっと寝たきり状態でしたが、2010年2月某日、短い生涯を閉じました。妹の生きた証として、ささやかながらここに記させていただきます」
ほんの短い文章だが、あれこれ詳しく説明するより、この方が想像力を掻きたてられていいだろう。斎藤はそう思った。
変化があったのはそれから二週間ほど経った頃である。もうその頃には斎藤は、そこにそんな文章を書き込んだことを半分忘れてしまっていた。書き込んだことで半ば満足してしまっていたのだ。しかしたまたまそこを通りかかった時、二週間前には無かった物に気が付いた。
斎藤があの文章を書き込んだ丁度その場所に、花束が置かれていたのである。
菊や百合で作られた献花が一束。それを見た瞬間、斎藤の心臓が一つ高鳴った。
これはもしかして、あの文章を読んだ人が置いたのではないか。そうとばかりは言い切れないが、もしそうだとしたら。
斎藤は混乱した。
ちょっとした悪戯のつもりだったのだ。そこまで本気に取る人がいようとは思っていなかったし、本気にした人がいたとしても、まさか花を供えるなんて予想してなかった。俺は、人の善意を踏みにじってしまったのだろうか。
そんな後悔が湧き上がる一方で、また別の思いも確かにあった。何しろ自分の話が人を動かしたのだ。それだけ真に迫っていたという事になる。そう感じることは斎藤の自尊心をいささかくすぐった。
意外な出来事に面食らってその日は斎藤も混乱したまま帰宅したが、数日してもう一度確認しておきたい気持が湧いてきた。気になることもあった。もし、自分の書いたあの短文が人を動かしたのならば――現実には花束が一つ置いてあった限りだが、AR内にはもっと反応があるのではないか。斎藤はそれを確認したかったのである。
……予想は当たっていた。斎藤が再びあの場所に着いた時、花束は数日前のものがそのまま置いてあっただけだったが、携帯端末の画面を通すとそこには予想以上の反響があった。斎藤が設置したタグの周りには、いくつもの同情的なコメントが投稿されていた。中にはひき逃げした犯人への怒りを顕わにした言葉も見られた。
勿論、それらのコメントを書き込んだ人物はその事故とは何の関係もない人々なのだ。そもそも事故自体が斎藤の捏造なのだから、当事者も関係者も存在するはずがない。つまりは――彼らは単なる通りすがりということになる。花束を置いた人も恐らくはそうなのだ。
只の通りすがりの人々が、見知らぬ人の交通事故に対してここまで反応を示すとは斎藤にも意外だった。
交通事故の犠牲者を追悼して路傍に花が供えてあることは、これだけ交通事故が溢れる世の中だ。いくらでも見られる光景だろう。
しかし大抵の場合、花や供物を置いているのは自己犠牲者の身内だろう。何の所縁もない通りすがりの人が、献花をすることなど普通あるだろうか。
斎藤には今までそんなことをしようと思った事がなかった。それは斎藤でなくともそうだろう。路傍の献花を見て、痛ましい気分を味わうことはあるにしても、わざわざそこに改めて花や言葉を捧げることなど普通ない。
だが目の前には、現実に花が供えられている。それはARの効果――なのだろうか。
言葉で具体的に何があったのか説明されたせいで、事故がより身近に感じられてしまったというのか。
事故なんてなかったのに。
死んだ妹なんていなかったのに。
ある程度予想していた結果とはいえ、数日前と同じように斎藤は混乱しながら帰宅した。もうARにデタラメを書き込むことは二度としないよう、心に決めながら。
それから斎藤がその場所を通りかかることは何度かあったが、そのたびに花束は増えていたという。それを見るたび、斎藤は何か取り返しの付かないことをしてしまった気分になった。
そして――三日前。
斎藤は久しぶりにその交差点を通りかかった。しかし、また様子が違っていたという。
道路に黒くタイヤの跡が筋となって歩道まで続いていて、ガードレールが一部ひしゃげている。どう見ても交通事故の跡だった。
それだけではない。タイヤの跡が続いていたのは、あの場所に向けてだった。
斎藤がでっち上げた事故の現場である。花がいくつも捧げられていた、正しくその場所目掛けて車が突っ込んだようだった。
もう事故の検分もとっくに済んでいるようで、周囲は殆ど片付けられている。細かいガラスの破片が時々街灯の明りを反射して光った。しかし片付けられているのは車だけでなく、そこにあったはずの献花もだった。車が突っ込んだことで、置いてあった花も潰されたのだろうか。
斎藤は、事故があったことはともかく、献花が無くなっている事には些か安堵していた。そこに花束が置いてあるのを見るたび、後悔の念に苛まれていたのは事実だったのだから。
そして、斎藤はなぜかこの時――この場所のARを見てみようと思い立った。
後から考えてもなぜそう思ったのかはわからない。只、そんな発想がふと浮かんで、斎藤は携帯端末を覗いたのだった。
相変わらずそこには以前斎藤が書き込んだ文章があり――そして、その周りに思いがけない言葉があった。
「ひき逃げなんて許せない。ひき逃げ犯がここで死ねばいいのに」
「事故起こす奴はクズ。逃げる奴もクズ。クズ死ね」
「ホントこういう話は胸糞悪くなるな。犯人地獄に落ちろ」
死ね。死んでくれ。死んでしまえ。死ねばいい。
斎藤が以前見た時とは違って、そんな書き込みが増えていた。
花束を見た時とは別の衝撃が斎藤を襲った。吐気すら覚えた。
見知らぬ者の不幸を、あまりにも簡単に願う言葉の群れ。
この人たちは何を言っているんだ。事故なんて無かったのに。嘘だったのに。
否。
事故はもう――起きてしまったのか。目の前のタイヤの跡。ガラスの破片。
……そうじゃない。現実と虚構を混同してはいけない。
この事故とその事故は違う。因果関係はない。
でも。
もう一度画面に目をやった。
死ね。死ね。死ね。死ね。
こんな事が書き込まれた場所で事故が起きるなんて、偶然にしても話が出来すぎている。
斎藤にはどうしても、それが事故と無関係だとは思えなかった。


「それでここに来た、と?」
高嶺はそう訊ねた。斎藤は憔悴した顔で頷く。
確かに斎藤の語った場所で、四日前に交通事故が起きている。高嶺も現場は見ていて、話の通りそこには潰された花があった。当然ながら、そんな経緯があったとは知らなかったが。
事故の原因はスピードの出し過ぎ及び前方不注意。事故の原因としてはありがちではある。
そして勿論、その「死ね」といった書き込みが事故と関係あるかどうかなど証明できない。そもそも常識的に考えれば関係などないだろう。
「でも、偶然だなんて思えなかったんです。誰かに言わないと耐えられなくて……おかしくなりそうで……」
それで我慢できず、交番まで来たのだという。事故の検分をした警察なら、多少は話が通じるのではないかと思ったらしい。
高嶺は混乱していた。正常な話とは思えなかった。
しかし斎藤の表情は至って真剣で、笑い飛ばせる雰囲気ではない。
反応に困って、高嶺は交番前の通りに目を逸らした。
その少し先には、件の交差点がある。
今までは何も感じなかったのだが――今の話を聞いた後では、何か。

(死ねばいい)

禍々しい感じがした。
錯覚だと、高嶺は自分に言い聞かせた。