オシャレ関係

ひと月ほどご無沙汰しておりました。
二日連続完徹して頭が煮詰まってきているので、折角だからややこしいことを思いつくままに書きます。
人文っぽいことを書きますが門外漢の素人考えなので見苦しいところは流していただきたい。


ここしばらく、関係というものについて考えている。
人間が世界を認識する時の方法として、「点で捉える」場合と「線で捉える」場合がある。
「点で捉える」というのは物質なり現象なりを独立した記号としてそれぞれ区別してゆくということ。言葉というものは物事を名付けることでその他のものから切り離す作用があるが、それは「点で捉える」という人間の思考の性質によるものではなかろうか。
「線で捉える」とは、物事と物事の間に発生する関係を取り出して考えるということ。関係を考えるという事は物事の意味付け、価値判断を行うということでもある。またこれは二点間の関係に限って考えるものではなく、三点間、四点間……の相互関係を考えてゆくことである。扱う点が多ければ多いほど相互関係は網の目のように複雑になる。そうやって認識される構造こそが世界というものである。
これら二つの考え方は自己の位置付けも異なる。前者においては自己は観測者、操作主体として対象と切り離されるが、後者においては観測対象の延長上に自己が含まれる。関係の網によって自己もまた世界とひと繋がりになるので、独立した観測者ではいられない。
これらは優劣の話ではなく、手法の違いでしかない。それぞれの考え方に向き不向きがあり、片方の考え方しか用いないという人間は恐らく存在しない。
物凄く大雑把な言い方をすると、自然科学は前者の考え方が用いられることが多く、人文科学は後者の考え方が多いように思われる。
例えば産業革命以降、西洋的な「科学」の考え方は世界をひたすら操作して人類に都合のいいように作り変えてゆくという方向に突き進んでいった。しかしそれは相互関係という視点がいささか欠けていた事は否めず、その偏りは公害や環境問題という形で現れたのではないか。

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自然を「操作」する、できるという考え方は砂漠や乾燥した地域で生まれやすいと思う。
砂漠は先年経ってもほとんど同じような環境であり、人間の行為の結果が残りやすい。例えば中東の砂漠には千年以上前の遺跡が多数残されている。
また、湿気の少ない地方では森林を伐採するともう森林には戻らなくなる。欧州や北米では昔から農地のために森林を切り開いた結果、その後放っておいても森林には戻らずに草原になっていたりする。
こういった土地では、自然を操作するための方法論が育ちやすい。

一方、温暖で湿潤な土地では植物の生育する勢いがとても強い。日本では木を切っても数年〜数十年放っておけば雑木林になってしまう。山中の廃村は容易く木々に飲み込まれる。カンボジアのアンコール遺跡も熱帯林に覆われていたところを発見されたのである。
こういった土地では、自然は操作しようと思ってもなかなか人間の手に余るところが多い。従って、常に人間の行動範囲と自然のバランスを見ながら手入れをして、自然環境とうまく付き合ってゆくという方法論になる。

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  • 「自分が何者であるか」を説明するためには他者の存在を用いなければならない。つまり他者が存在しなければ自我を確立できない。
  • 人間は社会的動物である。だから人間が人間でなくなるためには別に生物的に別物になる必要は無く、社会的な関係を放棄すればよい。
    • もっとも、人間社会の関係を放棄したとしても、またその先に別の関係が発生するだけではありますが。

まとまらないけど眠くなってきたので続きとか補足はまた気が向いたら書きます。誰得だけど。