セドナ

偶の休みだったので午頃迄寝ていようと思って朝飯も食わずにぐうたらしていたらキムラが息せき切ってやってきた。折角気分よく怠惰を満喫していたところを邪魔されたので頗る不機嫌に応対したのだが、流石はキムラだけあってこちらの機嫌を意に介す素振りなど微塵もない。興奮した様子のキムラが言うには近所の浜に鯨が打ち上げられたという。正直なところ間抜けな鯨などより先程の惰眠を継続したかったところだが、キムラは一緒に見に行こうぜと主張して譲らない。この男とは中学校以来の付き合いで所謂腐れ縁という奴だが、初めて会った頃からこういう具合に相手の事情を鑑みようとしない所はずっと変わっていない。多分死ぬまでこのままなのだろうと思う。だから諦めて鯨見物に同行することにした。
同行することにはしたのだが簡単にはこちらの機嫌も好くはならないので連れ立った道すがら鯨について悪し様に罵ってやることにした。キムラを罵らないのはそんなことをしてもこの男には全く効き目がないからである。遠回しに厭味を言っても通じない上に直接的な罵言を連ねても矢張り効果がないのだ。これほど罵倒が通じない相手も却って珍しい。罵言の意味が判らない様である。そもそも罵倒やら毒舌やらというものは発信者の悪意を聞く者に伝えるものであるから、相手の心情を全く斟酌しないキムラには理解が不可能なのだ。キムラに罵倒が通じないとなればこれほどキムラを興奮させる鯨を貶めるしか鬱憤の晴らし方は残されていないのである。何故そんな相手と腐れ縁とはいえ付き合いが続いているのかと言えば、別段こちらが付き合いを望んでいるわけではなくあちらから勝手にやってくるというだけである。特別私が好かれているというわけではない筈だが、キムラにしてみれば現在近場に住んでいる同級生というのも私位しか居ないので、声をかけるのに気安いのだろう。
キムラと並んで歩きつつ鯨がいかに非道かつ残忍で心無い悪鬼のような動物であるかを有る事無い事言葉を尽くして並べ立てていると、それを聞いているのだかいないのだかよく判らないキムラがぽつりと言った。そういや打ち上げられた鯨、ミウラさんに似てるんだってさ。
――ミウラさん?ミウラさん……あのミウラさんか。
――そうだよ、シュンちゃんも好きだったあのミウラさんだよ。
――馬鹿野郎、俺が好きだったのはミウラさんじゃあなくてイワクラさんだ。や、そんなことはいいんだ。鯨がミウラさんに似てるって何だ。
――俺も直接見てないからよく判らないけど似てるんだってよ。オカダが言ってた。
――オカダ?あいつと会ったならあいつと見に行けば良かったのに。というかあいつ何言ってんだ。意味分からん。
――いやあ、ミウラさんに似てる鯨なんて楽しみだなあ。
ミウラさんは中学三年の時に同級生だった女子で、同学年の中でも特に可愛いと男子の間で評判だったし、人懐っこい性格で女子の間でも人気者であったようである。大きな眼とやや栗色がかった長い髪、整った顔立ちに際立った体型といった具合で人目を引く容姿だったことは間違いない。修学旅行の写真でも彼女が写っているものは他より焼き増し注文が多かったそうである。現在彼女がどこで何をしているのか全く知らない。だが私も当時の同級生の中で今でも多少付き合いがあるのがキムラ含め二、三人程度という体たらくだから同級生の事情にはむしろ暗いほうなので、もしかしたら同級生の中には彼女の現在を良く知っている者も沢山いるのかも知れぬ。却ってそういう者からすれば、私のほうが仔細の分からぬ存在であろうと思う。それは兎も角、私の知る当時のミウラさんは少なくとも鯨に似た容姿ではなかった筈である。オカダが似ていると言ったのがどの時点のミウラさんかは知らないが、現在のミウラさんだって少なくとも鯨に似ていると言うことはないだろう。だとすれば鯨だってミウラさんに似ていよう筈がない。本当にオカダの発言の意図が理解できなかった。或いはキムラの聞き間違いだろう。
そうこうするうちに浜へ辿りついた。海水浴場の長い砂浜の途中に人だかりが出来ており、その正面、波打際から二十メートル程海に入った辺りに黒々と盛り上がった塊がある。成程あれが鯨に違いない。打ち寄せる波に洗われてはいるが、上半分は水の上に露出してしまっている。鯨はその巨体のため、陸上では己の体重を支えきれないと聞く。恐らくもっと潮が引けば、愈々重力がその身を潰すことだろう。哀れなものである。先程は最大限に罵倒したが、実のところ鯨は嫌いではない。むしろ動物の中でも好きなほうである。あのなだらかで無駄のない体型、巨体の割に小さいつぶらな瞳。大海を泳ぎ廻る雄大な生き様。それがこんなつまらぬ処で座礁するとは何とも同情を禁じえない。とりあえずもっと良く見える辺りまで近づいてみる。人だかりはどうも近くの商店主やら漁師の面々らしかったが、皆何とか鯨を救出してやりたいながら手の出しように見当が付かず、手を拱いて見守っているところだった。それはそうだろう。不用意に近づけば身悶える鯨の下敷きになることもあり得る。善意だけではどうにもならぬ。
遠くから見ると黒ずんでいたが、近くで見ると体色は意外に青みがかっている。頭部が沖の方を向いているので顔はよく見えない。近くで見てもやはりミウラさんにどこが似ているのかさっぱり分からなかった。体長は五メートルくらいか。詳しくないので種類までは判らぬが、鯨としては大きいものでもないだろう。生きているのかいないのか、ピクリとも動かない。動けないのだろう。動かないあたり生き物というより岩石か何かのようにも思えるが、つるりとした艶かしい体表に生物としての実感がある。白い波に洗われて最初は良く分からなかったが、腹の周辺の水が何やら赤黒く見えるあたり、傷があるのかも知れぬ。座礁した時に傷付けたのか、重力に耐えられなくなってきたのか、或いは座礁する以前に既に傷ついていたのか。元々怪我していたとすれば、何かに襲われて海岸近くまで逃げ込んできたのかもしれない。進むも地獄、戻るも地獄である。
鯨を眺めながらまた何となくミウラさんのことを思い出していた。人気者のミウラさんだったが勉強は苦手でその上大嫌いだった。何せ三年間自主学習はおろか学校の宿題すら一度もしたことがないというミウラさんだ。英語を例に挙げると、be動詞の活用すら覚束ない有様だったという。得意教科も特になし。成績は三年間ずっと低空飛行だったにも拘らず勉強をするつもりなど微塵もなかったらしい。そういう所が悩みの種であったと、卒業後に元担任の先生が漏らしたのを聞いたことがある。そんなミウラさんも高校生になる積りはあったようで、卒業後の進路は進学を希望した。果たして彼女に高校で勉強する気があったかどうか、そもそも高校が勉強をする処だという意識があったかどうか。それは兎も角も受験の準備を進めた彼女だが、出願期限間際まで志望校が決まらなかったらしい。というのも、ミウラさんの成績では入れそうな高校が簡単に見つからなかったからである。良さそうなところがあっても遠かったり、男子校だったりした。しかしそんな状況でも勉強をする気など更々なかったらしいミウラさんは、全日制に入学するのを諦めて隣県の私立高校の通信制に滑りこんだ。更にこれまた流石と言おうか、高校入学直前に問題を起こしたと聞く。何でも、彼氏と一緒に隣町の駅前で喫煙していたところを補導されたらしい。無人駅だったらしいが、巡回中の警官に見つかってしまったとの事である。危うく折角の高校入学も取り消しになる所だったという。一緒に居た彼氏というのが誰なのかは聞いていないが特に興味も無かった。その話は事件当時から半年程後になってから聞いたことで、それ以来彼女についての噂は一度も聞いたことがない。どこで何をしているかは知らないが、そもそも彼女の家族ももうこの街から引越してしまって今はもう居ないとのことである。
キムラはもう少し見ていたかった様だが、特に変化もないので帰ることにした。満潮になればあの鯨も何とか助かるかもしれない。それまでに力尽きなければであるが。そういえばオカダは中学時代、熱心なミウラさんファンだったような記憶がある。或いはオカダは当時からミウラさんの中に鯨に通ずる何かを感じ取っていたのだろうか。またはオカダなら現在でもミウラさんの消息を知っているのかもしれない。ならばあの鯨が似ているのは現在のミウラさんだろうか。現在のミウラさんにも別段興味はないが、オカダの言葉は少し気になった。平素オカダとは殆ど会う機会がないので電話でもして訊こうかとも思ったが、現在の彼の電話番号を知らないし、キムラから教えて貰うのも面倒なのでやめにした。どうでもいいことである。
その晩夢を見た。座礁した鯨の腹から血が続々と流れ出したかと思うと傷口が勢いよく破裂し、黒い内臓が大量に噴出した。内臓が無くなってゆくにつれ鯨の腹がどんどん凹んでいったかと思うと、仕舞いには人が一人傷口から飛び出した。多分あれはミウラさんだと思ったところで目が覚めた。翌日の朝食時に観たTVのニュースで例の鯨について報道していた。満潮時に自力で脱出できるかと期待されたが、不可能だったという。仕事に遅れそうだったのでニュースを最後まで観ずに電源を消した。