九十二/ 走る馬

Sさんの経営している画廊に、一枚の馬の油彩画があった。フランスの無名画家の作ながら、草原を走る一頭の馬が躍動感に満ちた勢いある画風で描かれていて、Sさん自身もなかなか気に入っていた一枚だった。
ただ、一つだけおかしなところもあった。カンバスの下端、暑く塗り固められた油絵の具の下から、僅かに獣の毛のようなものの端が覗いているのである。Sさんがこれを見つけたとき、筆の毛が描いているうちに抜けたものが絵の具に混じったのではないかとも思ったのだが、それにしては量も多く、一箇所に固まりすぎている。どうもわざわざ絵の具で毛を塗り固めたのだとしか見えないのだ。
ともあれ、いい絵には違いないと思ってSさんはこれを画廊に展示していた。
あるときこの絵が売れた。買っていった男性は、ひと目でこの絵が気に入ったようで、喜んで帰っていった。
それから一週間ほどして、その男性がまたやってきたのだが、なんとあの馬の絵を返品したいという。返金の必要はないからとにかく絵は返すと、怒った様子ではなく、むしろ切羽詰ったような面持ちである。Sさんは腑に落ちないながら絵を受け取った。
するとまたしばらく後、別の人がこの絵を買っていった。やはりいたく気に入った様子だった。今度こそ長く大事にしてくれる人だといいと思いながら、Sさんは絵を売った。
だが、ひと月ほどしてその人もまた絵を返したいと言ってきた。どうも納得がいかないSさんは、理由を聞いてみた。しかし、答えは「とてもあんな絵は家には置いておけない。買うんじゃなかった」というだけで、何かあったらしい様子ではあるのだが、説明してくれないため何があったのかはさっぱりわからない。
とにかくその絵には何かあるようなので、Sさんももう人に売る気がなくなってきた。そこで店頭に飾るのはやめて、梱包して倉庫に仕舞っておくことにした。
すると、お得意様の一人から「あの馬の絵はもう売れたのか」と聞かれてしまった。イメージダウンになるのもいやだったのだが、もう二回も返品されてしまっていて三度目があるのもいやだったので、Sさんは思い切って返品されたことを全て説明した。聞き終わったお得意様は、それでもいいから売ってくれと言う。どうやらこの人もこの絵を随分気に入っていたらしい。
Sさんは三度目の正直と腹を括って、結局絵をこの人に売ることにした。代金はかなり安くした上で、もし何かあったらすぐ連絡をくださいと念を押した。
それ以来その絵は返品されることはなかったが、そのお得意様もそれきり現れなくなってしまい、連絡も付かなくなった。それがあの絵によるものなのかどうかはわからない。
ただ、Sさんは言う。「あの絵、店に置いてあるときには別におかしなことは起きなかったんですけどねえ……」