七十/ 今日のひとこと

床に直接布団を敷いて寝るつもりだったEさんだったが、引っ越していくらも経たないうちにベッドを購入した。


新しいマンションに引っ越して一週間経った夜のことである。
布団に入ってうとうとしていると、どこかからボソボソ話し声がする。
隣室のテレビだろうか、と思ったがどうも違うようだった。声は壁からではなく、床の方から響いてくるように思える。
Eさんは好奇心から、布団を出るとそっと床に耳をあてた。やはり下から聞こえてきていたようで、今度ははっきり聞こえた。
――けんこうはあんみんから
――じみちなどりょくがたしかないっぽ
――さんぽはみぢかなうんどうほう
――ありがとうのひとことをたいせつに
こんなことを男性の声が、抑揚乏しく呟いている。
どこかで覚えのある言葉だった。少し考えて、はっとした。
Eさんの部屋の壁にかかっている日めくりに書いてある「今日のひとこと」。
毎日一つずつ、暮らしの中のちょっとしたアドバイスなどが書かれている。
・健康は安眠から
・地道な努力が確かな一歩
・散歩は身近な運動法
・ありがとうのひとことを大切に
などなど。
床を通して聞こえてくるのは、間違いなくこれだった。
この日めくり自体は、ありふれたものなのでEさん以外の人が持っていても不思議ではない。
夜中に「今日のひとこと」を音読するのも、まあ何か理由があるのかもしれない。
問題は、それが床下から聞こえてくることだ。
Eさんの部屋は、一階なのである。
不気味なことは不気味だったが、引っ越したばかりでそれを理由に出て行く程のことでもない。
仕方なしに、床から離れて寝られるようにベッドを買ったという。