秩父の山中に猫風呂という集落があった。あった、というのは既に無人の廃村だからである。過疎化によって廃村が決まり、昭和六十年を以て全住民が他所へと移って以来、滅多に訪れる人もなかったようである。
しかし最近この村に人が住んでいるのではないか、という報告が役場に寄せられた。目撃者は山歩きをしていた男性である。
彼は気紛れに普段行かない区域に足を伸ばしたところ、偶然猫風呂を見渡せる高台に出た。夕暮れ時の廃村の打ち捨てられた家々からは、何故か薪を燃やす煙が幾筋も揚がっていたという。
猫風呂は元の住民が出て行ってから今まで一度も誰かが住み着いたことにはなっていない。少なくとも住民登録の上ではそうなっている。また、住居以外に何かの目的で利用するという届出もない。もし誰かが定住しているならば、それは非合法の存在であって、浮浪者か何かの可能性がある。例え浮浪者が住み着いているとしても、一人二人程度なら放っておいても害はないかもしれないが、証言によれば煙は幾つもの家から揚がっていたとある。少なくない数の浮浪者が密かに住み着いているとすれば、山の中とはいえ治安上の問題も浮上してくる。役場としては与太話として簡単に見過ごせる話ではなかった。
そういったわけで、住民課の下っ端の私は上司と二人で調査に向かうことになった。貧乏籤である。
話には聞いていたものの、猫風呂は予想以上に奥深いところにあった。狂ったように折れ曲がった山道を車で三時間以上辿って、もうこれ以上は獣道になるのではないかと思い始めた頃にやっと到着したのが、目撃証言と同じ夕方のことである。
村に車を進ませた私たちは思わず眼を疑った。村じゅうに鯨幕が張り巡らされている。
村の一番奥にある、ひときわ大きい屋敷に喪服の人が沢山集まっていた。どう見ても葬式である。車を停めて降りた私たちを、喪服の人々は不思議そうに眺めてきた。そんな中、屋敷の中から何やら貫禄のある老人が一人出てくると、そのままこちらへ向かってきて、私たちに一礼した。
「私は、大嶋と申します。――役場の方とお見受けいたしますが」
こちらは「はあ」などと気の抜けた返事しか返せない。
「届けも出さずこんなに集まってしまって、どうもお騒がせしました」
「一体これは、どういうわけですか」
「いや、実はこれは私の葬式でしてな」
生前葬というやつか。本人が生きている以上そういうことになる。それは結構だが、そもそもなんでそれをこんな山の中の廃村でやるのだ。
大嶋老人はそんなこちらの疑問を見透かしたように微笑んだ。
「ああ、この村じゃあ、もともと葬式は本人が生きているうちに済ませるのが慣わしだったんですよ。私はこの村の出身でしてな。そろそろお迎えが来そうなもんで、折角だからこうして故郷の村で葬式を挙げようっつうわけです。少し前から縁者に手伝ってもらってここで準備してましたもんで、お騒がせしたみてェで申し訳ねェことです。ま、葬式は今日が本番でお終いなんで、大目に見て貰えませんかね」
慣わしとして生前葬を行うとは珍しい。それにしても人騒がせなことだと思ったが、そういうことなら目くじらを立てるほどのことでもないだろう。上司もそう判断したようだった。
徒労感を抱きつつ帰ろうとすると、引き留められた。
「折角ここまでお越しになったんですから、少しゆっくりしなすってはどうです。お茶くらいはいいでしょう」
本来は公務員服務規程によりそういう訳にもいかないのだが、山道の運転で疲れていた私たちはつい誘惑に乗ってしまった。
案内されるまま屋敷に入ると、やはり黒衣の人々が三十人はいて、座敷でそれぞれ呑み食いしている。皆喪服なのだが、葬式らしい湿っぽさはあまり見られず、好き勝手に盛り上がっているところを見ると、なるほど生前葬らしいなと思う。
私たちが出された茶菓子を座敷の隅っこで慎ましくかじっていると、やがて土間の方から太鼓を持った男が四人ほど入ってきた。奇妙なことに彼らは白い、動物の面を被っている。狐かと思ったが、狐にしては顔が長くない。狐より丸いあの顔は――猫だろうか。猫の面とは珍しい。
彼らは入ってくるなり「そろそろ猫踊りでございます」と言った。宴会をしていた人たちは立ち上がって、猫面の男たちとともに外へ出て行く。訳がわからないながら私たちもついて行った。
人々は屋敷の前の道に一列に並んで、その前と後ろに太鼓の男がついた。列の真ん中に、先程の大嶋老人がいる。
太鼓が鳴った。四つの太鼓はあるものは速く、あるものは遅く、それぞれのリズムが複雑に絡みながら、波のようにうねる。今まで聴いたことがないようなリズムだった。この村に伝わるものなのだろうか。
人々は太鼓の音に合わせて踊りだした。軽く握った手を胸の前で緩やかに、時に軽快に回すその動きは、さながら猫の盆踊りといった風情である。やはりこれもこの村独特のものだろうか。
列は、踊りながら歩き出していた。長く伸びた列は、村の更に奥、山の方へと向かっていく。太陽は既に山の端に隠れており、夜の帳が静かに降り始めていた。いつの間にか列の中に幾つかの提灯が点っている。
そういえば猫は死期を悟るとどこへともなく去ってゆくという。彼らはどこへ去ってゆくのだろうか、という考えがふと浮かんだ。きっと猫の面のせいである。
ぼんやり眺めながら立ち尽くしていた私たちだったが、何だかこのままだと置いていかれそうな雰囲気だ。慌てて後を追おうと一歩踏み出したところで、太鼓が一際大きく鳴った。同時に列の人々が一斉にこちらを振り向く。その顔は全て、白い猫の面を被っていた。薄暗い中に白い面が奇妙にはっきり浮かぶ。
はっと息を呑んだところで、気がつくと私は上司と二人、屋敷の庭の草むらに立ち尽くしていた。目の前にいたはずの行列はどこにもいない。それだけではなく、張り巡らされていたはずの鯨幕からなにから、葬儀の痕跡どころかさっきまで人のいた痕跡全てが、周囲のどこからも消えうせてしまっていて、いやに明るい月が荒れ果てた村を寒々と照らし出しているのみである。全て夢だったのだろうか。一体どこからが。
振り向くと、屋敷の破れかけた屋根の上では一匹の白猫が寝そべってこちらを見下ろしていたが、欠伸を一つするとひらりと屋根の向こうへ身を翻し、それきり見えなくなってしまった。
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