最後の一葉

夕方、河原にてかねてより思案の水切りの工夫を練っていたら、いつの間にか隣に知らない女学生がやってきて一緒に石を投げ始めた。
歳の頃十七八、近所の高校の制服を無難に着こなして、髪はいまどき珍しい黒髪を後ろで一本にまとめた質素と言うか地味と言うか、顔立ちは雛人形のような純和風だったが、なぜかどこかで会ったような感覚もある。そんな風貌の娘が少年のように一心に石を投げている。
おかしな娘もいるものだと思ったが、そもそも先に石を投げていた自分のほうがおかしいことくらいはわきまえていたので、そのままお互い無言で石を投げ続けること凡そ四半刻、初めて彼女は手を休めて唐突に語り始めた。


曰く、
混同しやすいのだけれど、面白いかどうかということと、正しいかどうかということは全く関係ない。別の次元の話のはずである。
面白くても正しくないこともあろうし、正しくてもちっとも面白くないこともある。
そもそも面白さは主観的な基準で、また正しさも相対的なものである。立場や状況によって簡単に変わるものであって、絶対的な尺度はない。
面白いかどうかは、それがその分野の研究上価値があるとか、思想上の価値があるとか、そういうことともまた別の話である。学術研究は客観的基準によってなされるものなので、その作品を面白く思うかどうかという主観的基準とは関係ない。
だから誰かが「これは面白い! 」と言っても自分が同じように感じる義務は全くない。誰かが「この小説は文学史上こういった根拠で価値があります」と言う場合は、その根拠を理解した上で賛成するなり反対するなりすればいい。
右に倣う義務はないはずなのだが、「面白い」と言っている人が沢山いると、何となく自分が面白いと思わないことが異常なことのように感じられてもくる。錯覚です。「全米が泣いた」と言われても、それに習う必要は全くない。広告が「売り上げナンバーワン! 」とか「全国で大人気! 」とかなんとか煽っていた場合、何だか多数決で面白さを決められているような気分になることもあるかもしれないが、多数決は面白さを決める手段でも、正しさを決める手段でもない。
ただ、面白いと言う人が沢山いるということは、その範囲が大きいほどその中に自分と同じような嗜好の人が含まれている確率も大きくなるということなので、自分が面白いと思える物を探す時の目安にはなりうる。あくまでも目安であって絶対ではない。面白いかどうか判断するのはあくまでも実際にそれに触れてみた自分でなければならない。逆に言えば、自分が面白いと思わない物でも誰かにとっては面白い物であったりする。
人間立場が違えば意見も異なるので、どれが一番正しくてその他は全く間違っているというような事態は実際はない。みんなどこかは正しいのである。多数決は、その立場の数だけある正しさのうちから、今回はどの正しさで行こうか決めるべし、というときの手段である。
多数決で決めると、その方向性が成功した時は得する人間が一番多く、失敗した時に文句を言う人が一番少なくなる。だから多数決は絶対的な正しさを決める手段ではない。多数決によって無視された少数派は、素直に決定を受け入れるか、多数派に反抗するか、そのコミュニティを離れるか、選択は自由である。厭ならば無理に従う必要はないのだが、多数派も勝った方が正しいと思いがちなので少数派をその正しさでもって従わせようとしやすい。互いの不幸である。
最近ふと思い出した言葉にこういうものがある。
「大切なことを伝える時は、言葉を砂糖菓子に包まなければならない」
うろ覚えなので多分ちょっと言葉は違うかもしれないし、誰の言葉かも覚えていないのだが、これは覚えておくといい言葉だと思う。
あなたにも、私にも、道行く人々にも、それぞれ各々の正しさがある。この正しさを人に伝えたい、人にわかってほしいという欲求は大なり小なり誰にもある。
正しさを誰かに伝えようとする場合、そのまま投げるのでは伝わりにくい。受け取ってもらいやすい形にして届ける必要がある。
「良薬口に苦し」と言うが、甘い良薬があればそっちに飛びつく人のほうが多いに決まっている。「正露丸」だってきょうび糖衣錠になっている。正しさを正露丸とすると、面白さは糖衣である。同じことを言っているなら、面白い方が受け入れられやすい。従って物申そうとする人は面白さを追求した方が効率がいい。面白さを生み出すのは技術によるところが大きい。格闘技で言えば正しさは技の破壊力で、面白さは技の命中率、精度にあたる。
わかりやすい例としてテレビなどのCFを挙げよう。CFが伝えたいことは、つまるところ「商品を購入してくれ」あるいは「このことを知ってくれ」ということ。ただそれをそのまま言っても求心力がないので、あの手この手で僅かな尺に面白さを詰め込む。多くの人が面白いと思えば思うほど、注目してくれる人が多くなり、CFの目的は達せられる。
どういう層に面白く思ってもらおうとするかは個人の選択なので、より幅広い層に受け取ってもらおうとするもよし、狭い範囲だけを想定するもよし。商業的には前者の方が正しいとされるが、表現の基準を商業に限る必要はない。
もっとも、正露丸の部分だけでも多くの人の共感を受けることもあるだろう。必要なものならば面白さに関係なく求められる。正露丸だけをあえて提示するならば、それは時流に欲された物である必要がある。これも面白さを追求するのと同様、簡単ではない。
また、正露丸なしで糖衣の部分のみの作品も、決して価値なしとは言えない。
中身がスカスカの、ただ口当たりのよいだけの作品だとしても、仮に十年二十年後に忘れ去られているとしても、その時多くの人に面白いと思ってもらえるのならば娯楽として価値がある。これを否定するのは傲慢だろう。ただ甘いものを舐めたいという欲求も人として当然あるはずだから。……


一部うろ覚えだが、大体こんなことを一気に語り終えるとそれで満足したのか、ぺこりとひとつ会釈をするとすたすたと堤防を上ってあっという間に見えなくなってしまった。
辺りはもう暗くなっていた。彼女が去った方を呆然と眺めながら、彼女の顔に見覚えがあると思った訳にやっと思い至った。
五千円札の顔にそっくりだったのだ。




結局、

何でこれが[小説]タグなの?