表現者は死人なり

ポーランドの作家、作品で自身が犯した殺人を描写

これを読んで連城三紀彦『戻り川心中』を連想してしまうのは私だけではないと思う。
以下重大なネタバレを含むのでそれでもいいという人だけ続きを読んでください。


『戻り川心中』では歌人が自作の歌に詠んだ架空のストーリーに沿って女性と心中を繰り返します。
この事件もそれと同様に、まず殺人を描写した小説があって、その内容に沿って殺人を犯し、その後で作品を発表したんだとしたら凄いなあと思ったわけです。そんな訳ないだろうけど。
殺人の後にそれを小説に書くのは単なる告白ですが、小説の後に殺人が来ると俄然凄みが出てきます。
殺人事件を凄いとか言うと不謹慎との謗りを受けそうですが、別に殺人それ自体が凄いというのではなくて、自作の演出のために殺人まで犯してしまうというその一点に凄まじさを感じるわけです。
関係ない人にとっては、たかがそんなことで人を殺すのかこの野郎ということになるわけですが、表現というのは元来そういったブレーキの壊れた車的なところがあるのではないでしょうか。走り出したら後はどこかに衝突するまで止まれないといったような。
私が『戻り川心中』という作品を好きな理由もそこにあるわけで、表現者の業とでも言いましょうか。
表現という行為は、表現者にとってどうしてもそれをしなければならなかったという側面を常に持つ*1と思うんですが、その衝動の前には時に人命すら鴻毛より軽きものになってしまうわけです。
これを業と言わずして何と申せましょう。
ジョジョに所謂「真実から出た『誠の行動』」という奴で、決して滅びません。止まりません。
止まらない者は表現者で、止まる者はよく訓練された表現者です。
表現者は死狂いなので時には一人の表現を数十人でも止めかねるものなのです。
表現だからといって何でも許されるわけではないので、したことの責任は本人が取らなければいけないわけですが、そういった社会的なデメリットを差し引いても猶それをしなければならない、というのはやはり少なくとも表現者本人にとっては『誠の行動』であるわけです。
実生活ではあまりそういう人に近寄らないのが平和に生きるコツでありましょう。

*1:理由の大小はあるにせよ