元アザラシと旅行してこい

多摩川に始まって日本各地の河川にフラフラ迷い込んできたアザラシの話はよく聞かれるので、私の家の近所を流れる太郎川にアザラシが現れるようになったと聞いた時も「へえ、だから?」というくらいの気持ちだった。
別段アザラシが好きなわけでもないので見物に行こうなどというつもりも毛頭なかったのだが、日曜にダラダラしていたところに友人から電話があって「アザラシ見に行かんか。かわいいぞ」と言う。
――能天気なやつだ、何が悲しくて偶の休みにアザラシ風情を見に出かけなけりゃあならん。
そう思ったのだが、悲しいことに他に用事もないので同行することにした。
河川敷に着いてみると大賑わいで、あろうことか祭か何かのように屋台の出店まで何軒か並んでいる。
全く馬鹿騒ぎとしか言いようがないと思いながら水際まで歩み寄り、アザラシの出現を待った。
数分後、東天俄に掻曇り、雷鳴轟き、霰雹降注ぎ、スワ天変地異かと身構えると、上流の方で歓声が上がる。
「太郎ちゃん!」
「太郎ちゃーん!」
「こっち見て!」
「かわいいー!」
どうやらアザラシが現れたらしい。太郎川だから太郎ちゃんか。ここまで安易だと逆に感心する。
聞けば、太郎ちゃんが現れる時は必ずああやって空が乱れるそうである。
波紋を立てながら何かが泳いでくるのが見えた。
アザラシなど動物園でしか見たことがないが、野生のアザラシは意外に豪快に泳ぐものだ。
そう思ったのだが、近づいてくると何やら様子がおかしい。
アザラシにしては色がおかしい。妙に肌色をしている。病気なのだろうか。
アザラシにしては泳ぎが遅い。怪我をしているのだろうか。
アザラシにしては手足が長い。あれではまるで。
――人間ではないか。
どう見ても人間の、中年男性が裸形で川を泳いでいる。
アザラシではないし、かわいくもない。話が違う。
禿頭が雲間から差した日光を受けてキラキラ光っている。
にも拘らず、集まった人たちはあざらしざらしと言い、手を打って大喜びする。
おいあれ、と友人に言うと「うん、あれはあごひげあざらしかな」などと言うので絶句した。
ひょっとして自分の感覚だけが狂っていて、あれは本当にアザラシなんじゃないかなとさえ思ったが、やはりアザラシにだけは見えない。
太郎ちゃんとやらは泳ぐ手を休めてこっちをじっと眺めていた。
つぶらな目がまっすぐに人間たちを見つめている。
見るな。
見るんじゃない。


と、その時背後でざわついた気配がした。
振り向くと、一人の若い女性が堤防の方から何やら喚きながら走ってくる。
「お父さん!お父さんでしょ!」
女性は近くの者が止める間もなく水に入ってゆく。ひざの辺りまで水に浸かったところで再び叫んだ。
「お父さん!私!恵子!」
太郎ちゃんは彼女の出現に驚いたようだったが、それを聞くと彼も立ち上がった。全裸だった。
「恵子……」
「お父さん、どこに行ってたの?この十年、ずっと探してたんだよ!?お母さんも、随分心配して……」
「済まなかった……」
沈黙が流れる。先に口を開いたのはまたしても恵子だった。
「今度ね、私、結婚するの」
太郎ちゃんがこの日一番動揺した。
「……一緒の会社の人。家の事情もわかった上で、結婚しようって、言ってくれたの」
「そうか……お前も、もうそんな……」
太郎ちゃんの目に光ったのは、川の水だけではあるまい。
恵子は躊躇いがちに続ける。
……お父さんにも、彼に会ってほしいの。私のお父さんよって、紹介したいの」
太郎ちゃんが目を伏せる。
「それはできない」
「どうして!?」
「俺は、お前と母さんを捨てた身だ。今更父親面なんて、お前が許してくれても俺が許せない……」
恵子も太郎ちゃんも黙り込む。
たまらず声が出た。
「行けよ」
意外な声にこちらを向く太郎ちゃんと恵子。ついでに周りの野次馬。
自分でもこんなことを言うのは意外だった。
「ウダウダ言ってないで、行ってやれよ。父親なんだろ?娘の結婚を祝ってやるのは当たり前だろうが」
「しかし……」
周りからも声が上がる。
「行けよ!」
「行ってやれ!」
「行って!」
歓声は河川敷一帯にまで広がった。
太郎ちゃんはそれを聞くと、恵子の目をまっすぐ見て、無言で頷いた。
二人の目から大粒の涙が溢れていた。
聴衆の中にも涙ぐむものは多かった。


そして私はと言えば、自分が河川敷にやってきた理由をどうしても思い出せずにいた。
仕方がないので徐に着衣を脱ぎ捨て、目の前の川に飛び込んでみた。
水は冷たかったが、聴衆が「あざらしだ!」と喜んでいるのでまあいいやと思う。
一度友人の方を振り向くと、実にいい笑顔で手を振っていたので振り返してやった。
しばらく泳いでいると腹が減ってきたので餌を探していると、少し先に何か動くものがいた。
岩場の陰から食いつけばそれは小さな釣り針だった。
おじさん唾を飲み込んで僕を美味そに食べたのさ。