三十二/ 水滴(28/100)

Mさんが出張でロンドンへ行ったときのこと。
予約してあったはずの宿に行くと、手違いで部屋が取れていなかった。
どうも予約が一杯らしく、代わりの部屋を用意しろと言っても首を横に振る。
Mさんは疲れていて早く休みたかったこともあり、いささか強硬に主張すると支配人も観念した様子を見せた。
古くて普段は使っていない部屋でよければ案内しましょう、と言う。
泊まれればなんだっていいと思ったMさんはその部屋に通してもらった。
確かに調度は一様に古びているものの、どれも質のいい重厚な造りで、室内の造作も高級だった。
元は上客向けの部屋のようだ。
図らずもいい部屋に泊まれることになってMさんはいい気分になり、程なく眠りに就いた。

しばらくしてMさんはふと目を醒ました。
まどろみの中、どこかで水滴が落ちる音が聞こえた。
ぽたり。
ぽたり。
シャワーがちゃんと閉まっていなかったのかと思ったが、どうも音はもっと近く、寝室の中から聞こえるようだ。
暗い中、音のするほうに何気なく眼をやって、Mさんはあやうく悲鳴を上げそうになった。
部屋の隅、天井から何かがにゅっと突き出ている。
よく見ればそれは人の顔の下半分だった。
上半分は天井にめり込んでいるように隠れている。
首から下はない。
その口はだらしなく開いていて、舌が覗いている。
その舌が、音もなくするすると伸びてゆく。
二メートル以上も伸びて、床にその先端が届いたとき、ぽたり、と水滴が落ちたような音がする。
すると舌は伸びた時よりも速く縮んで口の中に戻ってゆく。
また舌が伸びる。
ぽたり。
縮む。
伸びる。
ぽたり。
(ぅうわっ!)
Mさんはぎゅっと眼を瞑ってそれを見ないようにすると、そのままそれが消えるのを待った。

気がつくと朝だった。
顔は消えていた。
恐る恐る顔が出ていた辺りを見てみると、舌の着地点あたりの床だけ、周りと色が変わっていた。


部屋代は驚くほど安かったという。