和傘

高校三年のとき、クラスメートにS君という人がいた。
彼はいささか無口ながら温厚で人当たりのよい好人物だったが、少し変わったところのある男でもあった。
それが端的に表れていたのが彼の傘である。
修学旅行で京都に行った折、彼は土産に和傘を購入した。
そんなものを買ったのは全九クラスの中でも彼一人くらいだったのだが、まあ趣味としては悪くないと私も思った。
しかし彼が少し変わっていたのはここからである。
彼はその和傘を日常で使い始めた。
京都あたりなら兎も角、和傘など私たちの町でおいそれと売っているものではないし、使っている人などそれまで見たことがない。
だが彼は雨の日には必ずそれを携帯し、当然のように差して歩いた。
人通りの少ない通りならまだいいが、例え駅前であろうと意に介せずそんなものを開いて歩くものだから、衆目を引く。
私たちの高校の制服は詰襟で、好意的に見れば戦前スタイルと言えないこともなかったが、どうしても悪目立ちしていた。
中には彼を指差して嗤う女学生などもいたくらいである。
むしろS君自身はそういった周囲の反応すら愉しんでいた風だったが。


そうして数ヶ月が過ぎたある日、悪い奴がいたもので、件の傘は盗まれてしまった。
帰り道にコンビニに寄った僅々五分足らずの間に、入り口付近に立てかけておいた傘は忽然と姿を消していたのである。
S君は当然気を落とした風だったが、すぐに立ち直った。
彼は言う。
「ハルさんというお婆さんがこの近くにいるんだけど。
彼女の旦那さんは既に数年前に他界されていてね。
子供もとうに独立して、今は一人暮らしなんだ。
旦那さんとの出会いはまだ二人が学生の頃でね。
ハルさんが重い荷物を持って雨の中難儀していたところを、偶然通りかかった旦那さんが手と傘を貸してくれたんだってさ。
当時の傘といえばまだ和傘も多かった。
だから、二人の思い出の品といったら和傘だったんだ。
で、今年の旦那さんの命日に雨が降った。
ハルさんは傘を持たずに墓参りに出かけてしまったから、急の雨に少し慌てた。
丁度そこに、和傘が立てかけてあったんだ。
旦那さんの命日に、丁度二人の思い出に重なるように、思い出の和傘が現れたんだ。
……それなら、彼女が持って行ってしまったのも仕方ないよね」
そう笑った。


無論S君はハルさんなんて老人は知らないし、多分そんな人は実在していない。
傘が盗まれたのは通学路のことで、しかも下校時間だったので高校生が沢山歩いていた。
恐らく下手人は同じ高校の誰かだったのだろう。
S君の傘は目立っていたし、S君自身がしばしば揶揄の対象になる変わり者だったから、無防備に立てかけてあった傘を見て俄かに悪戯心を起こした不届き者がいても不思議はない。
ハルさんの話は徹頭徹尾S君の妄想である。
無論彼自身もそれが事実だとは思っていないだろうが、その物語ならば彼は傘を失ったことに納得できる。
ハルさんの物語は彼にとっての真実になった。


更に時は過ぎて、卒業を間近に控えたある日。
傘を盗んだ下手人が突然判明した。
同じクラスのA君が昼休みに自白したのである。
A君はごく軽い気持ちで傘を持ち去ったようで、ごく軽く冗談めかしてそれを打ち明けた。
もうA君の中では時効だったらしい。
S君は平然とA君の謝罪にならぬ言い訳を聞いていたが、おもむろに立ち上がると自分の座っていた椅子をゆっくり持ち上げた。
余りに落ち着いた動作だったので周りの者はそれが意味することを理解できなかった。
S君は胸の高さまで持ち上げた椅子で、A君の頭を力一杯横殴りにした。
A君が頭から血を噴いて床に崩れ落ち、S君がそれにもう一撃を振り下ろすまで、周りの者は身動きすら取れなかった。
やっとS君を羽交い絞めにしたときには、彼は追撃をやめて満足そうに微笑みすら浮かべていたし、全く抵抗もしなかった。
A君は白目をむいて全身で痙攣し、起き上がることさえできなかった。
近くにいた女子が何人か、食べたばかりの昼食を吐いた。

この事件は新聞沙汰になり、テレビでも何度か報道されたのでまだ覚えている人もいると思う。
A君は一命を取り留めたものの下半身不随となった。
S君はまだ出てきていない。
あれ以来S君に会って直接聞ける機会はなかったし、マスコミの報道でも動機についてはっきり伝えることはなかったが、私には何となくそれがわかる。
S君はまず傘を失った。
そこから彼はハルさんの物語を考え、それを当てはめることで喪失感に決着をつけた。
しかしA君の自白によってそれが台無しになってしまった。
S君は傘に加えて、ハルさんの物語をも失ってしまったのだ。
代わりに現れたのは、クラスメートの軽薄な悪意だけだった。
それはS君には到底許せないことだったのではないだろうか。

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もちろんA君の自白以降は私の創作である。
下手人は見つからなかったし、そもそもA君という人物は存在しない。
S君は学生時代に再び京都を訪れ、また似たような和傘を買ってきた。
今でも使っているらしい。