十一/ 湖の写真

Kさんは二年間アメリカに留学していたことがある。
その時滞在していたのはアメリカ北東部にあるMという街だった。
アメリカ北東部には湖や湿地が多い。
Mにも隣接する大きい湖があった。
古くは原住民の聖地であったらしく、湖岸には祭壇の跡といわれる石組みなども遺っていた。


帰国後、アメリカで撮った写真を整理していると、妙なことに気がついた。
湖の風景を写したものが随分多いのである。
Kさんには風景写真を撮る趣味はないし、気まぐれで湖を写すこともあったかもしれないが、そんなに気になるほどの枚数を写したはずがなかった。
それにこれを現像したのはアメリカにいる間のことで、受け取ってすぐに一度は目を通していた筈である。
しかし過去にこんな違和感を感じた覚えはなかった。

写真をよく見てみる。
Kさんが湖畔を訪れたのはいつも数人の友人達と一緒だったので、写真を撮るのなら彼らをフレームに入れていたはずである。
だが、湖畔で友人の姿を写したものは一枚もない。
湖には何度か遊びに行ったが、いずれも何枚か友人を撮った記憶がある。
ならばこれは現像する時に他の人の写真が紛れてしまったのかとも思ったが、数枚置きに自分の姿が入っているものがある。
やはり風景写真も自分のカメラで写したものと考えるのが自然だと思った。
だとすると、友人の誰かが自分の知らないうちに風景を撮ったのだろうか。
少なくとも自分が入っている写真に関しては、同行した友人が撮ったものの筈である。
しかしよく見てみると、その写っている自分も何か奇妙である。
しばし眺めて、ようやくおかしいところに気がついた。
どうも写真の中の自分は、すぐ近くにいる誰かに話しかけたり、その肩の辺りに手をかけたりしているようなのである。
だが誰かがいるはずのその空間には誰も写っていない。
向こうの風景が見えているだけである。

これはどういうわけか。
Kさんは一つ仮説を立てた。
実はこれは写した当初は風景写真ではなかったのではないか。
そこには友人達がちゃんと写っていたのではないか。
それが何かの理由で消えてしまったのではないか。
そう考えれば、風景のみの写真が多いのにも写真の中の自分の奇妙な仕草にも説明がつく。

しかしそうすると別の疑問が出てくる。
友人が消えてしまったのはともかく、なぜそこに向こうの風景が現れているのだろうか。
何かの不具合で写真の一部分が消えてしまっても、その向こう側の風景がその下に現れることなどありえない。
またなぜ湖畔の写真にだけそんな現象が起こっているのか。
他の場所で撮った写真には友人の姿もしっかり残っているのである。


どうにも湖に何か原因があるのだとしか考えようがないまま、Kさんはそれから5年経つ今もその写真を保管している。
友人達の姿は今も消えたままである。