ギー(後)

そうしてひと月が過ぎた。
虎が逃げ込んで以来件の山附近にはめっきり人の足が途絶えた為、目立った人的被害は出ていないものの、たかが虎1頭に対して手を出しあぐねている当局に対する風当たりは増すばかりであった。
食料の少ない冬山では、やがて虎の方でも限界が来る。
時間が経てば経つほど食料を求めて再び人里に下りてくる危険性は増える一方だった。
また、春になると山にはヒグマも出る。
冬の間に決着をつけねばならなかった。
迅速な解決のため政府は自衛隊の動員を決定し、前回の山狩りを凌駕する人数に、まるで武装ゲリラを相手にするかのような
武装にて送り込まれる運びとなった。


4日間にわたる追跡の末、流石の虎も遂に追い詰められた。
四方を大人数に取り囲まれてはもう逃げられない。
遠巻きに包囲される中、狙撃によって象をも倒す威力の麻酔が打ち込まれたが、全く動じるところがない。
そこに及んで虎は、死に物狂いの抵抗を始めた。
電撃的速度で包囲の一画に向かうと、そのままの勢いで襲いかかった。
あまりの速さに咄嗟に対応できない隊員を薙ぎ払い、突き飛ばし、押し倒し、牙を立て、爪を振るい、瞬く間に20人近くが屍と化した。
実弾の使用が許可され、3方から一斉に弾丸が打ち込まれた。
第1射で50発近くを打ち込まれながらも、まだ虎は動きを止めない。
第2射で更に約50発が打ち込まれ、ここでようやく虎は動きを止めたが、まだ立っている。
第3射に至って遂に怪物はその身を横たえた。
金色の毛皮はほぼ全身真紅に染まり、辺りの雪は紅い花のようだった。


死亡を確認する為に包囲の輪が狭められ、うち20人が虎に近寄っていった。
銃口を虎に向けたまま、じりじりと距離を狭めてゆく。
ひとりの隊員が虎の顔を覗き込んだ瞬間、驚くべきことに虎は再び眼を開いた。
思わず跳び退いた隊員だったが、更に信じがたいことが起こった。


「あははははははははははははははは!」


誰もが耳を疑った。
笑っているのは誰なのか。
否、皆わかってはいるのだ。
ただそれがあまりに信じがたい光景なので、認識が追いつかなかった。


「アハハはハハハははっ、ははははハハハはは、はーッはははっははは!」


笑っていたのは虎だった。
誰が信じられるだろう、横たわった瀕死の虎が大口を開け、さも可笑しいという笑い声を上げているのだ。


「ははははははははははは、はっはっははははっは、あっははははははははは!」


口の端に血の泡を浮かべながらも、虎は笑うのをやめない。
呆然と見ていた隊員たちであったが、1人が恐怖に耐え切れず呻き声を洩らしたのを契機に、恐慌状態に陥った。


「ははははははははははははははははは!」


虎に近寄っていた隊員たちは恐怖の余り、何とか笑いを止めようと虎の顔面に次々と弾丸を撃ち込んだ。
爆発的な笑いと銃声、肉の爆ぜる音、骨の砕ける音が交じり合う。
なかなか笑い声は止まない。
隊員たちは笑っているのが虎なのか己なのかわからなくなってきたほどだった。
虎の顔が原形をとどめなくなった辺りで、ようやく笑い声も止んだ。
今度こそ声を上げるものはいなかった。


その後しばらくの間、笑い声の幻聴に悩まされる隊員が後を絶たなかったという。