通行人(青)

Tさんの所属していた演劇部では毎年の文化祭で公演を行っていた。
Tさんが二年生のときの文化祭でも三ヶ月前から準備していた演目が上演され、滞りなく終わった。
ところが客席から舞台を観ていた脚本担当の二年生が、終了後にこんなことを言った。
あんな青い衣装、いつの間に使うことになってたの?
彼の話では、あるシーンで見慣れない青い衣装が使われていたという。
それは主役の背後を何人もの通行者が通り過ぎるシーンだった。その通行者役の中に青い全身タイツのような衣装を身につけた者が数人混じっていた。そんな演出は聞いていなかったし、リハーサルでもそんな衣装は見なかったので、不思議に思ったという。
それを聞いた役者担当の部員たちは困惑した。舞台上ではそんな青い衣装は見た覚えがなかったからだ。
確認してみると照明担当の部員も同じシーンで青い人を見たと言いだした。
だがそんな衣装は予定になかったし、使った衣装の中にも実際そんなものはない。
部外者が勝手に混じったはずはない。それならば舞台上や舞台袖の部員たちが気付かないはずがないからだ。
公演はビデオ撮影していたので、早速映像で真偽を確かめることになった。
問題のシーンまで早送りしてみると、画面を見ていた部員たちの口から驚きの声があがった。確かにいる。
頭から足まで全身ブルーの人が数人、通行者役に混じって舞台を横切っていく。他の通行者役たちは白か黒で上下統一した衣装を身に着けているので、そこに青で統一した姿が混じってもそこまで違和感はない。
映像では顔面まで青一色で、顔が全く判別できない。目鼻があるかどうかもよくわからない。青いのっべらぼうにも見える。
舞台の上にいた部員は誰一人この青い姿に気づかず、客席側にいた部員からははっきり見えていた。
後で部員たちが公演を観てくれた友人たちに訊いてみたところ、多くがこの青い姿を覚えていたという。
そういうものが舞台上にいたらしいということははっきりしたが、正体については不明なままだった。


この公演の映像はその後も特に封印や消去されることなかったので、翌年の新入部員にもそのまま見せた。そのときは青い通行者について特に説明しなかったが、それについて特に新入部員から質問が出たりはしなかったという。

道具部屋

Tさんは高校生のときに演劇部に所属していた。
演劇部で使う大道具や工具は校舎内の部室ではなく、別棟のプレハブ小屋の二階に置いてあった。部員はここを道具部屋と呼んでいたが、ここに入るときには奇妙なルールがあった。
中に人がいるかどうかに関係なく、入るときと出るときに〈失礼します〉〈失礼しました〉と挨拶しなければいけないというものだ。
Tさんも入部してすぐに先輩からこのルールを教えられ、必ず守るようにと言われた。先輩が入部したときにもこのルールを上の先輩から教えられたという。
なんでそんなルールがあるんですか、と訊いても先輩はどうしてもだよと言葉を濁す。詳しいことは教えてもらえなかったので、そういうものかと思って従った。


一年生の夏休み、練習中に先輩から頼まれてTさんは道具部屋に工具を取りに行った。
慣れのせいか、練習に気を取られていたせいか、あるいは一人だったせいか、このときTさんはいつものルールを忘れていた。無言で道具部屋に入り、工具を取って、部屋を出て施錠したところで挨拶のルールを破ったことに気がついた。
しかし誰に見られたわけでもない。先輩に知られなければ特に問題ないだろう。
そう思って戻ろうとしたところ、背後で扉が開く音がした
咄嗟に振り返ると、施錠したはずの扉を開けて女子生徒がひとり道具部屋から出てくる。目が合った。
妙に見覚えのある顔である。
道具部屋から出てきたのは、Tさん自身だった。しかし向こうのTさんは全体的に白っぽく、背後の壁が透けて見えていた。
白くて透けているTさんはきょとんとした顔でTさんを眺めている。
お互い一瞬固まった後で、Tさんは全速力で逃げ出した。怖くて背後を振り返ることもできない。もし後ろについてきていたらという疑いを振り切るように走った。
息を切らして練習場所に戻ったところ、先輩たちはそんなTさんをひと目見て、お前挨拶忘れてたな、と見抜いた。
道具部屋に出入りするときに挨拶を忘れると、決まって奇妙なことが起きる。その場で起きることもあれば、帰宅してから何かある場合もあるし、数日経ってから思い出したように異変があることもあり、何があるかは人と場合により異なるという。
そういうのは先に教えてくださいよ、とTさんが抗議すると先輩たちは平然と言った。
自分で見たほうが信じられるだろ? それにみんな通る道だからさ。

窓拭き

Kさんが年末に自宅の窓拭きをしていた。
一階の窓をひと通り拭いて、二階の窓に取り掛かった。寝室の窓を内側から拭き、それからベランダに出て外から拭いた。
きれいになったので室内に入ろうとして、窓が開かないことに気がついた。
よく見ると窓の半月錠がいつの間にか閉まっている。これでは窓が開くはずがない。
窓を閉めた拍子に勝手に錠がかかるような構造ではないが、しかし誰が錠をかけたというのか。つい先程ベランダに出たばかりで、その後はずっと窓を拭いていた。
室内で誰かが窓に近づけばわからないわけがない。もちろん誰も窓には近づいてこなかった。
そもそもKさんは妻との二人暮らしで、妻は買い物に出掛けている。家にはKさんのほか誰もいない。
誰も窓を施錠できなかったはずなのに、現実に窓が開かない。全く不可解だ。
原因はともかくとして、これでは家に入れない。窓ガラスを割るのは気が引ける。ベランダから外壁を伝って降りるのも無理だ。電話して妻に早く帰ってきてもらうことも考えたが携帯は家の中に置いてきてしまった。
結局Kさんは妻が帰ってくるまでの一時間、十二月の寒空の下を吹きさらしのベランダで過ごした。そのせいか、翌日に体調を崩して一日寝込んだ。
ベッドに横になりながら、なぜかベランダにチラチラと動くものが見える気がした。
目をやってもおかしなところはない。しかし視線を外すと視界の端でやはりベランダに動くものが見える――ような気がする。
気になってなかなか寝付けなかったという。

西郷さん

Nさんは物心ついた頃から、ときどき身の回りで謎の男を見かけていたという。
がっしりした体格で丸顔、短く刈り込んだ髪に太い眉で、まるで上野公園の西郷隆盛像である。むしろNさんは上野の西郷像のほうを後から知って、この顔あの人に瓜二つだなと思ったくらいで、それ以来Nさんはその男を西郷さんと呼ぶようになった。
そういう特徴的な姿をしているのに、Nさん以外にはその男の姿を誰も見ていない。
家の前を通り過ぎていったり、公園で遊んでいるときに砂場の脇を歩いていったり、町中ですれ違ったりと、Nさんは何度もその男を見かけている。しかし家族も友人も、誰一人その男を見た覚えがないし、心当たりもないという。
西郷隆盛の霊が出てきているのかとも思ったが、その割にはスーツだったりTシャツだったり着ているものが現代的で、同じ格好で出てこない。現実に存在している姿に見える。
奇妙なことにNさんが幼い頃から大人になるまで、ずっと容姿が変わらないように思える。歳を取らず同じ顔でいるところからすると、生身の人間ではないようにも思える。
しかし正体不明なだけで特に実害もなく、言葉をかけてくることもないので、Nさんはそういうものだと思って大して気にせず過ごしてきた。


一度だけ、西郷さんが他の人にも見えたことがあった。それが今のところ西郷さんを見た最後だという。
大学三年生のとき、Nさんに彼氏ができた。この彼と一緒に大学の近くを歩いているとき、前方から自転車に乗った男がやってきた。
西郷さんだった。
しばらくぶりに見たな、と思いながら注意も払わずにすれ違ったが、ふと気づくと隣を歩いていた彼がいない。
見回すと彼は後ろで立ち止まって西郷さんが去った方向を見ている。
今、西郷隆盛みたいな人がいた……。呆然と彼が呟く。
初めて自分以外にも見えた、とNさんも驚いた。彼には西郷さんについて話したことはない。
自分はそんな人には気づかなかったような素振りで、まあ世の中にはそういう人もいるんじゃないと返事すると、彼は首を横に振った。違うんだよ、普通じゃないんだ。そう言う。
彼はひどい乱視で、眼鏡をしていても輪郭が常にぶれて見えている。
それが、なぜか今すれ違った西郷さんだけはよく見えた。彼が乗っていた自転車は他と同じにぶれていたのに、西郷さんだけは全くぶれずにはっきりした姿で通り過ぎていったのだという。

砂浜の穴

Wさんが六歳の息子を連れて海に行ったときのこと。
海水浴シーズンが終わった後だったので砂浜に人は少なかった。泳ぐつもりはなく、それまで海を見たことがなかった息子に海を見せたかっただけだったので、二人で波打ち際を歩いた。
息子は大はしゃぎで貝殻を拾ったり海水に手を浸して舐めてみたりしていたが、やがてしゃがみ込んで砂を手でかき分け始めた。
何か見つけたの、と尋ねても無言のまま一心に掘っている。
傍で見ていると何やら穴の中に白いものが覗いた。貝殻かと思ったが、もっと細長い何かだ。
息子の小さな手が砂をどけていくうちに、だんだんそれが何なのか見えてきた。
骨だ。
人ではなく、もっと小さな生き物の骨。犬か猫か。
そんなものがどうしてここに埋まっているのかはさておいて、それ以上掘り出すようなものでもない。
なおも掘り続ける息子を止めようとしたが、声を掛けても返事をするどころか視線すら向けてこない。ねえちょっとやめてよ、と肩に手をかけると息子が大声を出した。

「いいからほっとけ!」

確かに息子の口から出た言葉だったが、息子の声ではなかった。野太い、大人の男の声だ。
Wさんは思わず息子から手を離したが、息子はそこでふと手を止めると目の前の穴を覗いて声をあげた。
なにこれ骨? 埋まってたの?
今度は息子のいつもの声だ。
息子はたった今自分が穴を掘っていたことも、大人のような声で叫んだことも覚えていないという。なぜそこを掘っていたのかもわからない。
気味が悪いのでWさんは息子を連れてすぐその場を離れた。
この時二人が履いていたサンダルは、翌日になってからなぜか潮ではなく石油のような臭いを放つようになったので、すぐ捨てたという。

隣の教室

高校で三年生が授業中のことだという。
バタバタバタッ、と数人が廊下を走っていく足音、そして隣の教室のドアを乱暴に開ける音が響いた。
足音の主たちは隣の教室の中へなだれ込んでいき、なにやらバタンバタンと跳ね回っているようだ。机や椅子を引きずるような音もする。
隣のクラスはちょうど修学旅行で留守中の二年生だ。一体誰が騒いでいるのだろうか。騒がしい足音からすると、教師ではなさそうだった。
隣が急にうるさくなったので授業中の先生が眉をひそめた。ちょっと見てくる、と言って先生は廊下に出ていく。
先生が出ていっている間も、隣の教室からはドスンバタンと大暴れしているような物音が響いている。
音は先生が戻ってきたタイミングで急に静かになった。
先生は首をひねりながら授業を再開した。生徒の一人が手を挙げた。先生、隣は何やってたんですか?
それがな、誰もいなかったんだ。と先生は言う。廊下に出た瞬間にはもう騒々しい物音は鎮まっていて、隣の教室を覗いてみても誰もいなかったという。
しかし生徒たちは納得できなかった。先生が廊下に出ていって戻ってくるまで、隣から物音は続いていたのだ。辻褄が合わない。
先生が何かを隠しているのか、それとも先生は実際に何も見なかったのか。

 


授業が終わってから何人かの生徒は隣の教室を見に行ったが、あれだけ暴れ回るような音が響いていたのに机や椅子は整然と並んでいたという。

教授の客

Rさんが大学生のときのこと。
教授に質問があって研究室に行くと、研究室のドアの前にスーツを着た老人が立っている。
真っ白な長いあごひげを蓄えた禿頭の老人だ。彼が少し猫背になってドアをノックすると部屋の中から教授の声でどうぞ、と聞こえた。老人はドアを開けて入っていった。
教授にお客さんか、今は質問してもダメそうかな、などと考えながらRさんは研究室のドアを開けようとした。学生たちは研究室に入るときにノックなどしない。
しかしノブが回らない。施錠されている。
今の老人が室内から施錠したのだろうか。それほど大事な話があるのか?
Rさんは試しにノックして失礼します、と呼びかけたが返事がない。重要な話があって施錠したとしても、返事がないのはおかしい。
少し迷ってから、Rさんは持っている鍵を使ってドアを開けることにした。研究室に所属している学生は全員合鍵を持っている。
ドアを開けると室内には誰もいない。
あれ? 教授とお爺さんは?
Rさんが困惑しているところに少しして教授が廊下からやってきた。
教授なぜそちらから? さっきのお客さんはどうしたんです?
そう尋ねると教授は怪訝な顔をする。教授は今しがたまで会議に出ていて、研究室にはいなかったという。
いやそれが今こんなことが、とRさんが見たことを話しているところで研究室のドアがノックされた。
教授がドアに向かってどうぞ、と声をかけるとドアが静かに開いた。誰も入ってこない。
Rさんがドアの外を見に行ったが、誰の姿もなかった。
R君が見たそのお客さんってどんな人だった? と教授が訊くので見たままを説明したが、教授にはそんな老人に心当たりは全くないということだった。