ゆうた

大学生のBさんが講義中に居眠りした。
大教室での講義だったせいか先生に見咎められることなく終了まで意識がないままで、終わってから友人に起こされた。
すでに他の学生は教室から去っている。寝ぼけ眼のまま慌てて教科書とノートを片付けようとして、ふとノートの紙面に目が留まった。


ゆうた ゆうた ゆうた ゆうた ゆうた ゆうた……


同じ言葉が繰り返し三行にわたって書かれている。覗き込んだ友人も怪訝な顔をした。
自分の筆跡のようだが、書いた覚えがない。居眠りしながら書いたはずはないが、居眠りする前に取ったノートの続きに書かれている。
ゆうたって誰だろう。ありふれた名前だが、知り合いにはいない。
気味が悪いので消しゴムで急いで消した。
「あーあ、消しちゃった」
背後から声がした。
友人と揃って振り向いたが、誰もいない。
今誰かの声したよね、と友人と顔を見合わせたところで、声が聞こえた方から駆け寄ってくる足音がする。
しかしやはり誰かの姿はない。
足音はあっという間にやってきて、ブワッと風が、というか空気のかたまりが勢いよく通り過ぎた。


Bさんと友人は慌ててその教室から逃げ出したという。

解体工事

Eさんが民家の解体工事をしたときのこと。
二階建てで築二十年くらいの平凡な民家だったが、重機で崩し始めたときに異変があった。
カラカラとガラス戸を開け閉めするような音がするのだ。Eさんだけでなく、現場にいる者がみなこの音を耳にした。
重機のエンジン音や建物を破壊する音、飛散を抑えるための放水音、様々な音がなっている騒々しい現場だ。
それにもかかわらず、カラカラ、カラカラという軽い音が騒音に混じって断続的に聞こえてくる。重機の運転をしている者までこれを聞いたという。運転席でもはっきり聞こえたらしい。
方向から考えると崩している家の中から聞こえてくるように思える。しかし窓ガラスは前もって外されているし、窓の開閉する音など普通は騒音に掻き消されて聞こえるはずがない。家の中に残っている人がいないことも確認済だ。
音は、家がすっかり崩れ去るまで続いた。


おかしなことはまだあった。Eさんがその日の夕方、作業着を着替えようとしたときである。
隣で着替えていた同僚がEさんの背中を見て言う。なんか首のあたり腫れてねえか?
そう言われてみると背中がなんとなく痒い。シャツを脱いでみると、さらに同僚が驚いた。
首から背中にかけて、幾筋もミミズ腫れが斜めに走っている。まるで爪で引っ掻かれた痕のようだ。
Eさんだけではなかった。その日、解体工事に参加した同僚が何人も背中に同様の痕ができていた。
作業着を着ていたので背中に擦り傷ができるようなことは考えにくいし、そもそも直接瓦礫処理に関わっていなかった者の背中にも傷ができている。
いつ、どうしてそんな傷ができたのか誰にもわからなかった。


余談がある。
このとき解体された民家というのは、「空家の探検」のKさんの実家の近くに建っていた。
Kさんにも確認してみたが、この民家がまさしくKさんが中学生の時に探検した空家であるという。
同じ家を舞台に、奇妙な体験談が複数存在するのは偶然だろうか?

毛皮

Tさんは小学五年生のときに親の仕事の都合で引越し、それに伴って転校することになった。
新しい小学校は新居から歩いて十五分くらいかかるところだった。
転校後ひと月ほど経ってその辺りの地理にも詳しくなってくると、近道にも見当がついてきた。
途中にある竹林の中を突っ切ると五分は短縮できる。
竹林には特に柵や立入禁止の看板があるわけでもなく、人がいるところも見たことがない。さほど鬱蒼としてはおらず、足を踏み入れても迷うようなこともなさそうだ。
そこである朝、念の為少し早めに家を出てから竹林に入ってみた。
竹林の中は小さな丘になっており、少し登ってからすぐ下って、反対側の道に出た。間違いなく近道だ。
その日の帰りからTさんは毎回この竹林を通ることにした。
そうして一週間ほど経った日の朝、それまで同様に竹林に入ったTさんだったが、下り坂に差し掛かったところで妙なものにぶつかった。
進もうとすると左肩に何かが当たる。竹ではない。なにも見えない空間なのに何かに当たっている感触がある。
手を伸ばすともじゃもじゃした毛深いものに触った。毛皮の壁があるようだった。
なんだこれ? と撫で回していると、怒鳴り声が聞こえた。
おいっ! そこで何してる!
行く先の道の方から知らないおじさんが叫んでいる。逃げようとしたが、追いつかれて道まで引きずり出されてしまった。
ここは気軽に入っちゃいけないんだ、古墳だからね。おじさんは案外落ち着いた様子で言う。もっと怒られると思ったTさんは拍子抜けだった。
しかしここが古墳? ただの竹林ではなかったのか。
だから悪戯したり遊び場所にしたらダメだよ。そう言うおじさんに、Tさんは先程の見えない毛皮について尋ねてみた。
さあ、古墳のヌシじゃないかな。おじさんは笑って言った。
入っていけないのなら柵や看板を立てたりすればいいのに、とTさんは腑に落ちなかったが、その後もその竹林で人の姿を見たことは一度もなかった。
そこが入ってはいけない場所だというのは、付近の住民がみな知っていることらしかった。
だったら引越してきてすぐに教えてくれたらよかったのに、とTさんは不満に思ったという。

くの字

Fさんは出産を控えて夫の実家に滞在することになった。
当時Fさんの両親はすでに故人で、夫の母親を頼ることになったのだ。
夫の実家は古い農家で、広い庭と古く大きい家があるものの、義父はずっと前に亡くなっていて義母が一人で暮らしていた。
夫は仕事で忙しく、その大きい家に日中Fさんと義母のふたりで過ごした。
よくある嫁姑問題のようなものはほとんどなかった。嫌味を言われたり喧嘩をしたりということは全くなく、義母は優しく接してくれたという。
そんなある日、台所で買い置きの食料がごっそり減るという事件があった。冷蔵庫に入れていなかった野菜や果物、パンが半分以上消えている。
義母から何か知らないかと尋ねられたがFさんにも心当たりがない。流石に一人で食べられるような量でもないので、義母もFさんを疑っているわけではないようだが、そうだとすれば犯人は他にいることになる。夫も知らないという。
野生の動物の仕業にしては食い荒らした様子がない。女二人の家に他の者が入ってきて勝手に食料を取っていったのだとすれば由々しき事態だ。
用心のため、日中でも戸締まりをよく確認して過ごすことになった。
それから一週間ほど経った頃、Fさんは夜中に喉がかわいて目が覚めた。水を飲もうと台所に向かうと何かを引きずるような音がする。
台所に明かりは点いていない。
先週のことを思い出したFさんはまた犯人が来たのかと思い、慌てて護身用にバットを持ってきた。
息を潜めて恐る恐る台所を覗くと、食料を置いてあるあたりに何かいる。
灰色のかたまりで、大きい。タヌキやキツネどころではない。クマはこの辺りにはいないと聞いている。
変な形をしている。真ん中あたりで「く」の字に折れ曲がり、その形のままふらふら左右に揺れている。
何なのあれ。
人のようにも見えないし、他の動物とも思えない。Fさんは好奇心に負けて台所の明かりのスイッチを入れた。
ぱっと蛍光灯が点いたが、灰色の物体は何だかよくわからない。相変わらず折れ曲がったまま揺れている。
Fさんはバットを握り直し、台所に足を踏み入れたが、その途端に灰色の物体は壁に染み込むように見えなくなってしまった。
また食料がなくなってしまったのだろうかと確認すると、買ってあったはずのニンジンとキャベツが消えていた。
あとは菓子パンもいくつか中身がなくなっており、袋だけが残されている。奇妙なことに、菓子パンの袋はどこにも開けた形跡がなく、中身だけがきれいに消えていた。


その後もいくつかその家で奇妙なことが続けて起きたが、Fさんが出産してからはパッタリ止んだという。

鼻唄

Wさんが彼女の家の近くで待ち合わせをしたある朝のこと。
道端のベンチに腰を下ろして彼女が来るのを待っていたところ、近くから誰かの鼻唄が聞こえる。
男の声だ。しかし誰の声なのか、周囲に目をやっても姿が見えない。
声はすぐ近くから聞こえているのに人の姿がないのだ。隠れられるところもない。
姿のないままに、鼻唄はゆっくり通り過ぎていく。聞き覚えのある曲にも思えたが、調子が安定しないのでなんの曲だかよくわからない。
鼻唄が遠ざかり聞こえなくなってから少し後にようやく彼女が来た。
さっきこんなことがあったんだけど、と話すと彼女はああ、そうかと納得する素振りだ。
ここって小学生の通学路だからと彼女は言う。それがどう関係あるのか。
近所に元教師のおじいさんが住んでて、見守り活動っていうのかな、小学生が集団で登校するのに毎朝一緒について行ってたの。
おじいさんが小学校から戻ってくるのがちょうど今ぐらいの時間で、ひとりで鼻唄を歌いながら歩いてくるのをよく見たんだ。
でももうかなりのお歳で、施設に入ったとかで、少し前から姿を見なくなってたのよね。まだご存命だとは思うんだけど。


いや、じゃああの鼻唄は?
そうWさんが問うと彼女は真顔で答えた。子供好きなおじいさんだし、声だけでも抜け出してきたんじゃない?

空家の探検

Kさんが中学二年生の時のこと。
偶然、同じ町内に空家らしき古い家を見つけた。二階建ての平凡な家屋だが門に板が打ち付けてあり、なんだか物々しい雰囲気がある。
自宅から徒歩で十五分くらいのところだが、通学路とは反対方向で普段あまり行かないあたりだったからそれまで存在を知らなかった。
家族に何か知っているか聞いてみたところ、以前ある一家が住んでいたが彼らが引越して以来何年も空家のままだという。引越した理由というのが、まだ幼い子どもが大怪我だか重病だかで長期入院することになり、家を売って病院の近くに移ったということらしい。
Kさんは母親から、あんた勝手に入って悪戯したりするんじゃないよ、と釘を差されたが禁じられれば行きたくなる年頃だ。
早速部活が休みの日の放課後、一人で空家に向かった。
門には相変わらず板が打ち付けてあったが、そこに続く板塀はところどころ傷んでおり、隙間が空いている。初めて見たときにここからなら入れそうだと思ったことも、入ろうとした理由の一つだった。
ところが家の方は戸締まりが厳重で、侵入できそうなところがひとつもない。これにはがっかりした。
玄関は当然として、裏の勝手口も固く施錠されていた。窓に至っては施錠された上にカーテンも隙間なく閉まっている。中が覗けそうなところすらない。
家の他には荒れて雑草が蔓延る庭しかなく、物置もない。仕方なく家の周りを一周しながら庭を見て回ったが、特に興味を引くようなものがない。
早々に飽きたので人に見られないうちに塀の破れ目から抜け出し、コンビニに寄って雑誌を立ち読みしてから帰った。

 


翌日、学校で友人がにやにやしながら話しかけてきた。
昨日お前コンビニにいただろ。一緒にいたのって誰?
そう言われても心当たりがない。コンビニではひとりで立ち読みしてそのままひとりで帰った。誰かと会った覚えはない。
そう返事すると友人はそんなはずはないという。
いや一緒にいたじゃん。隣にいて仲良さそうに肩組んでたし。
肩を? 誰と? 自分が?
それ、相手はどんなやつだったと訊くと、高校生くらいの姉ちゃんだよ、隠すなよと友人はいう。
なんと言われようと、昨日は空家から家までずっと一人のはずだった。

信号待ち

Mさんが出張で遅くなった帰り道、途中のトンネルのすぐ手前で信号が赤になった。
朝早くに家を出たのでもう今日はすぐ帰って寝たい。そんな気分だからか、信号が変わるのがいやに遅く感じられる。
いつもは通らない道なので道順をあれこれ考えながら信号が青になるのを待ったが、一向に変わらない。
まさか押しボタン式なのか、と支柱を見たり、感応式のセンサー範囲に車が入っていないのか、と上を見たりしたがそういったものは見当たらない。
夜中の山道で対向車も後続車もいない。赤信号でも無視して進んじまうか、と改めて周囲を見回したところですぐ傍に花が見えた。
斜め前方の電柱の根本に、ガラスの花瓶に立てられた花がある。街灯に照らされてそこだけ浮かび上がって見える。
ここで事故があったらしい。
なんとなく信号無視を咎められた気がしてばつが悪い。しかし他に誰もいないので信号無視しても事故など起こりようがない。
信号はまだ赤だ。
構うか、とブレーキを緩めそうになったところで、花瓶が倒れた。
風はほとんどない。誰も花瓶に近づいていない。花瓶がひとりでに倒れた。
車の中からはわからないような何かの振動で倒れたのかもしれないが、どうも気味が悪い。
信号はまだ赤だ。
いくらなんでも長すぎないだろうか。もう五分以上は信号待ちしているような気がする。
信号がおかしいのだろうか。
勝手に倒れる花瓶といい変わらない赤信号といい、あまりこの場に長居したくない。
やはり進もう、ともう一度前後左右を確認して、違和感があった。
花瓶が倒れていない。最初に見たときと同じように花瓶が花ごと立っている。
振動か何かで倒れることはあっても、ひとりでに立ち上がるはずがない。
周囲に人の姿はない。Mさんが視線を外したほんの僅かな間に誰かが花瓶を起こしたということはありえない。
さっき倒れたのは見間違いだったのか?
訝るMさんの視線の先で、花瓶が倒れた。もちろん誰も近づいていないし、風もない。
先程の光景がそっくり繰り返されている。
背筋に嫌な汗が吹き出した。
もしもう一度、花瓶が起き上がったら。そしてそれがまたひとりでに倒れたら。
Mさんはすぐに車をバックさせてから方向転換して、その信号を避けて帰ったという。