偶然

偶然の一致という言葉がある。
遠く離れた場所で、相次いで似たような出来事が発生したり。
珍しい出来事があったすぐ後に、再び同じようなことに出くわしたり。
関係のないはずのふたつの出来事に、人は時に共通点や因果関係を見出してしまうことがある。
これは大抵の場合、錯覚や思い込みによるものだろう。
人の脳は物事を抽象化して認識し、二つの物事に共通点や因果関係を探そうとする性質がある。
それによって本来全く関係のない物事の間にも、何かしらの関連性を錯覚してしまう。


人が死ぬ直前に、まるでその前触れであるかのようにそれまでと違った行動を取ることがあるという。
病に蝕まれた人が死期を悟り、急にそれまでとは違った行動を見せるようなことは確かにあるだろう。
しかし事故や事件などで、本人にも死の予測ができなかったはずの場合でも、前触れのように変わった行動が見られたという話は少なからず聞く。
これも多くは偶然の一致に過ぎないのだろう。
人が亡くなったとき、特にそれが急なことだった場合などは、周囲の人間が過去に死の前兆となるような出来事がなかったかと思い返す。
そうして少しでも変わった出来事、印象的な出来事があれば、それと死を結びつけて考える。
ああ、あれが前触れだったのかと説明をつけて納得しようとするのだ。
真相はどうあれ、そうした死の前兆に関する話が三つある。


ひとつめは小学校教師のEさんの話。
仕事帰りにスマートフォンを見るとメールが来ていた。
送り主は大学の同期のTという友人で、しばらく連絡を取っていなかった。一体なんだろうと思って読んでみたが、挨拶と近況報告くらいで大した要件ではない。
急にどうしたんだろうと思いながらTに電話してみると、元気な様子だ。
Tの話によれば、突然メールしたのは大学の頃に撮った写真を久しぶりに見たからだという。部屋を掃除したところで昔の写真が見つかって、懐かしくなってEさんに連絡してみる気になったということらしい。
Eさんもしばらくぶりに聞く友人の声に学生時代の思い出が次々に蘇り、思い出話に花が咲いた。
せっかくだから近いうちにあの頃の仲間で集まろうという話になり、後でまた詳しい話をしようと約束して電話を切った。
その十日ほど後に、EさんのもとにTが亡くなったという報せが届いた。交通事故でほとんど即死だったという。


ふたつめはパン職人のYさんの話。
あるとき、Yさんの店に知人のMさんが尋ねてきた。
Mさんは専門学校時代の先輩で、在学中は何かと世話になり、卒業後も親交は続いていた。
――思い返してみれば一度も来たことなかったと思ってさ。
そんなMさんの言葉の通り、Yさんが自分の店を構えてからもう十年以上経っていたが、Mさんと会うときはいつも別の所だったので、直接来てくれたのはそれが初めてのことだった。
店内の飲食スペースでお茶を飲みながら少し話をして、それから急に来たし長居しちゃ悪いなと言ってMさんは帰っていった。
Mさんが亡くなったのはその三日後のことで、酒に酔って家の階段で脚を踏み外し、首の骨を折ったのだという。


最後は自動車販売店に勤めるOさんの話。
平日の夜中に実家から電話がかかってきた。
母の声で、次はいつこちらに帰ってくるのかと聞いてくる。Oさんから電話することはたびたびあっても、母から電話してくることは珍しかった。
特に帰省のことは考えていなかったが、そういえばしばらくの間正月にも盆にも帰省していなかったことに気がついた。そこでOさんは、来月の休みには帰ってもいいよと返事した。
母は嬉しそうだったが、別に用事があるわけではないから来れる時でいいよと言う。その夜はそれで話が終わったが、Oさんが母の声を聞いたのはそれが最後になった。
その翌週、母は台風で増水した川に流され、後に変わり果てた姿で見つかった。
Oさんはあの電話の後すぐ実家に行っていればと悔やんだという。


以上の話はどれも偶然で済ませられるような話だ。
人間は常に計画的に行動している訳ではなく、普段あまりしないようなことを気まぐれにすることもあるだろう。
たまたまその後に亡くなったというだけの話ではある。
ただ、ここにもうひとつ偶然の一致がある。
この三つの話は、私がここ一週間足らずの間に次々に聞き知った話なのである。
こちらからそういう話題を切り出したわけでもないのに、どういうわけかここ最近はそうした話を聞かせてもらうことが重なった。
これもまた偶々そうなったというだけのことで、そこに何らかの繋がりや因果を感じてしまうのは受け取る側の問題なのだろう。