松葉杖

Eさんは高校三年生の春から、受験対策として予備校に通い始めた。
学校が終わってから予備校に向かい、授業が終わって電車で帰ってくる頃にはもう夜十時を過ぎるのが毎度のことだった。
駅から自宅までは自転車で線路沿いの道を辿るのが一番の近道だった。街灯が点々とあって真っ暗ではないし、大通りから一本外れた道で車が少ないこともあって、Eさんはいつもこの道を通っていた。
時間が遅いから他の通行者もほとんどいないのが当たり前だったが、ある夜Eさんが帰る途中、前方に人影が見えた。
両脇に松葉杖をついた人がよたよたと一人で歩いている。
あの危なっかしい足取りで、こんな時間に一人で歩いているなんて大変だな。大丈夫だろうか。声をかけたほうがいいだろうか。
そう思いながら自転車を漕いでいたEさんだったが、その人影に近づいてゆくにつれて目がおかしくなったような気がしてきた。
というのも松葉杖をついた人の姿が、近づいていっても真っ暗にしか見えないのだ。
街灯の下でも頭から足まで塗りつぶしたように黒い。
黒づくめの格好をしているのかと思ったが、更に近づいていくほどにその姿が見えにくくなった。
周囲の暗がりに溶け込むように、黒い姿の輪郭が曖昧になってくる。
疲れ目かなにかで自分の視覚がおかしいのかと疑ったEさんだったが、周りの風景は普通に見えている。
松葉杖の人だけがどんどんぼやけていくのだ。
どうもあれはおかしいぞ、とはっきり考えたときにはもうすぐそこまで接近していたので、そのままの勢いで追い越すことにした。
横を通り抜けるときにはもう人の姿形はなく、二本の松葉杖だけがコツコツとアスファルトの上を歩いていた。透明人間が杖をついているかのように。
Eさんは振り返らずに全速力でその場を離れたという。